一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

これまでのブログ記事を本の形にしてみたまとめ(付追記)

なんというか新しい文章を書こうにも呪詛か恨み節か地下から漏れ響く泣き声みたいな感じにしかならなさそうで全然書けることがなくて、っていうところで、ふと思い立った。

「今までのやつをまとめよう」

以前購入させていただいたことのある『少年コレクション』さんなどオタクによるオタクとしての同人誌というのがとても面白かったので、別に誰に見せるわけでもない自分用だけども、まとめるなどしてみようと思ったのです。コピー本だけど。

ということで、これまでの記事を小冊子にしてみた試みの覚え書き。

 

 

①紙に落とす記事を選抜
なんだかんだでこれまで雑多に50強の数記事を残してきていたらしいのだけども、そこから選ぶこと22こ。とはいっても内2つは英語部参加版とそれの元の日本語版とで重なっているので実質内容的には20になるのか。私は6割も外すほど何をそんなに書いてきたんだ…。
とりあえず画像多用ありきのものとか他ジャニメインのもの、あと創作文はあらかた外して、おおよそのんさなに関するものと言葉に関する記事が自分の核だなぁーと思うのでその辺りを持ってくることにした。
とりあえず手始めに目次っぽいものを作ってみて、「(*゜∀゜)本っぽくない?本っぽくない?」とぼんやり悦に入る。

 


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これは出来上がったやつの目次。後ろ半分が文字が薄くなっているのが、後々の恐ろしさである…。

 


②表紙用の紙を買う
(*゜∀゜)せっかく作ってみるんだからね!ちょっと紙とか特別に買ってみてもいいジャン!? みたいな気持ちで、紙屋まで出向いてみた。

初っぱな入り口からいきなり「ブライダルにどうぞ!」ときらびやかな、まことにきらびやかな紙のサンプルが招待状の形で十数枚並べられていて、オタクがオタク用の紙選びに来てすみません…とめげかけたが。

先にいた方はデザイナーか何かのようでもう御用達みたいな手慣れた様子で紙のカットまで頼んでおり更におののくも、むやみにお店の方に声をかけられることもなく、気の済むまで紙を眺め回すことができました。

しかしどうにもピンとくるものがない。

のんさな厨なんだから赤とか青でいいじゃんと思っていたのに、いざそういう紙を見てもいまいちピンとこない。とりあえず渋い文集みたいになるのは避けたい。もうひとり来たお客さんがお店の方を質問攻めにしていたので、これはいけるのではと思って自分も尋ねることに。

 

「(見本ファイルを見ながら)この紙ってどこかありますか?」
「あっこれですねー(模造紙くらいの大きさゾーンで)もう廃盤になるので少ないんですけど、何枚切っても料金は同じなので、枚数ある方がお得ですねぇー」
「あっそっか、カットお金がかかるんですね…」
あまりに無知である。
「あ、じゃあそんなに枚数必要ではないので、元からA4のやつで似たのありますか?」
「これどうです?」
「あんまり色がぺたっとしてないのがいいなぁと思うんですけど…なんていうかもうちょっと…くすんだ灰色のやつ…」

 

私はこのコピー本をどういうテイストにしたいのか。

 

あくまでオタクが担当のことを書き散らしたものをまとめようとしているのだからもっと明るくしてもいいのでは!?という声が理性では鳴り響いているが、感情は「こう…地に足を縫い止められた…行き場のない気持ちのような…」的なものを求めている。厨としてあまりに活力がないのでは。

などと言いつつ、結局灰色の紙をお買い上げ。紙の名前を覚えていないのほんとダメ人間。

 


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今見るとなんていうかこう、…墓石っぽいね…*1


その後お店の方が他のお客さんに言っていたので文具屋さんにも行ってみたのだけど、A4サイズならここでも十分見比べられそうかなーって感じでした。

<ペーパースタジアム>http://paper.main.jp

今回行ったところ。天神北を更に上っていって、博多座のもうちょっと裏くらい。歩くと20分強くらいかな? サイズをたくさん選びたいときとかアドバイスをいただきたいときは良さそう。お店の方がそれならこう、みたいな紙を即座に繰り出してくる。

<JULIET's LETTERS>http://www.juliet.co.jp

アクロス1階の文具屋。こちらもわりときらびやかな紙が多い印象。A4・名刺サイズの紙と、イタリアンペーパーなるものが置いてあった。

<インキューブ天神店>

http://www.incubenews.com/tenjin/

B4・A4・名刺サイズだったかな? プリンターに使える紙が中心という印象だけどバリエーションはいろいろあるし、立寄りやすさではいちばん手頃かも。

 


③記事を縦書きに落とし込む
結局ここの作業が9割だよね…。ワードに人格があったら物理的に殴り合ってるしもはや自分に時給払ってあげたかった。
まぁやることとしては、「内容に手を入れる」ことと「体裁を整える」こととがあるわけですが、

 

とりあえず22記事分の文章を貼り付けられたワード「168ページです」
とりあえず22記事分のコピペを繰り返した私「」

 

ひとまず「文字のサイズを小さくする・二段組にする・段落ごとのスペースを削る」ことで110ページほどに削れましたが、その作業中に分冊にすることを決意した。それでも目次とかいろいろ足して上巻56ページ下巻68ページだぞバカじゃねぇの。そうだよ目次が薄いのはそこまでしか載ってないってことだよ。

 

で、以下が基本の書式と自分内ルール。

・文字サイズ タイトル11、本文9、注釈とノート8
・フォント 日本語:MS明朝 英語:Times new roman
 たぶんひねりはない。
・基本は漢数字。雑誌の号数はアラビア数字。
・英語は横向きのまま。DVDやV6など、一部は縦書き。(いやしかし今見たらえびは横向きになってるぞ…なんだこの基準は…)


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「!!!」3つくらいなら縦中横にしても見やすい気がする。「!!!!!」を1マスにまとめるとあんまりインパクトがないかも。

 


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ライナーノーツを読むのが好きなのでそれっぽいのを挟み込んだり



あとはブログの中では軽率に顔文字劇場を繰り広げているのですが、縦書きにするとどうしても崩れるのは避けられないということで適宜やむなく消したり縦中横で処理したり。
縦中横、(サ∀ナ)(のωん)くらいならまぁいいけど、(*サ∀ナ)こういう顔にするともう見づらい。あと(サ∀ナ)は半角なせいで全部横向きになってそのままでもまぁ見るに耐えるんだけど、(のωん)はひらがなだけ縦書き、ωは横向きになるのでどうしようもない…。

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縦中横ののんさな/縦書きさなちゃん/縦書きのんさん(再現)

 

しかし改めて、11年だか12年にはもうJr.ながらみすの8人分の顔文字が定着してて、だてさま(`ё´)とかすげぇ似てるのに真田(サ∀ナ)野澤(のωん)って潔さが過ぎるよね。いや好きだけどね。顔文字だと野澤さんより小顔になってよかったね。

 


以下今回のワードとの殴り合い。
三点リーダーは和文フォントにしないと真ん中にならないことは学んだ。
・「””」のカッコの配置がうまくいかなかったんだけど、これもフォントをどうにかしないとならんのだろうか。識者助けて。
・ページ番号入れるのめんどくさい。たぶんページのセクション分けか何かしないといけなかったんだと思うけど、もうやけになって目次にも奥付にもページ番号が入っている状態である。
・なぜ! なぜ上段最後の行を埋めずに下段に行くのか?!!?! その空間の意義とは?!!?!


ともかくも格闘を繰り広げ、PDFで保存すれば準備完了です。

 


④印刷をする
お世話になったのがセブンイレブンのコピー機です。オタクRTで「めっちゃ同人に寄せてきたぞ!」みたいな機能のレポを見たことがあったので試したのですが、すげぇ簡単に本のページの体裁で出てきた。

やり方はこちらのページが分かりやすいです。

http://mitok.info/?p=34714&page_access=via
自分で気を付けるのは4の倍数でページを作っておくことくらいでしょうか。
出来上がりがA5 = A4に2ページ分を印刷することになるので、印刷代は「ページ数÷2×10円」。私のは上巻下巻それぞれ280円、340円にて印刷完了。
あとはコピー機に忘れ物するなよ!っていうやつですかね…最近これで何度かコピー機使ってて、USBとおつりの忘れ物に1件ずつ遭遇した。印刷物忘れるのも怖いよね…。

 


あとは紙を折って表紙用に買った紙と一緒にホッチキスすれば完成です!(*゜∀゜)中綴じ用のホッチキスというのを使うと楽です。

いや表紙に題字の印刷すらないていたらくだが。おうちで手差し印刷ができたり、おそらくキンコーズなど行けばそれでいいのかなと思うんですが、キンコーズ使いこなせないオタクは諦めた。

 

 

出来上がりがこれ。
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折るとちゃんとページが順番になるように印刷されています。


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無駄にエピグラフを入れてかっこつけてみるなど。(※「さもなくば一握の砂を」で引用した阿久悠の詩)


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がんばって英文中の日本語を横向きにしたのに一部し忘れたへぼさ。


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ふまたんも横向き。


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附録という体裁でかっこつけてみたがるがここにもページ数が入っている悲しさ。


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寓話は一段組にした。

 

 


終始誰得の代物でしたが、編集してみて結果、双数の話に始まりそれが最後寓話の紐解きに繋がらざるを得ないのは、あぁーすげぇ…すげぇ私って感じ…な仕上がりになりました。

まぁ全部おおよそブログと同じ内容なんだけど、紙で手元にあるってやっぱり面白いですね。みんな軽率に本つくるといいよ。とりあえず体裁整え直して完全版つくりたいです。今度は赤と青の紙買います。

 

 

※追記


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とりあえず完全版(仮)つくりました! (仮)なのはまだ体裁不備が見つかったからです…


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これはひどい

 

写真だと赤がだいぶ明るいですが、実物はもうちょっと暗い赤です。逆に青は買うときにはこのくらいでいいやと思ったけど、いざ綴じてみるともっとくっきりした青が良かったかなぁと思っている。タントというちょっと見た目革っぽい?紙です。かなり厚めだったのでただでさえ本文ページがそこそこあるのにホッチキス死ぬかと思った。

 

http://portal.tt-paper.co.jp/fancy/search/product_list1.html

紙がたくさん載っているので楽しい。タントな!名前今度はチェックしたぜヤフー!(゚∀゚)と思って改めて調べたらめっちゃ種類があって再び負けた。たぶん6番だとは思う…。

 



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皆様もぜひ。

 

 

 

 

*1:一覧を見ると、おそらくフレンチマーブルだったのかなと…石と和紙のイメージ足して割る2みたいな感じの紙。

コインロッカーはどこにでもある ーーコインロッカー・ベイビーズという「普通」の獲得

ぎょっとしたのは、彼らの着衣が汚れていたからだった。着衣、というのは会見やゲネプロなどでも事前に挙げられていた「オムツ」だ。排便にまみれたオムツ、そうして吐瀉物の滲んだよだれかけ。赤ん坊たち、と名前を宛てがわれたアンサンブルたちは皆それを身につけていたのだ。
ハシとキクはきれいだった。ああ、ハシとキクの背後にすら、既に選ばれなかった赤ん坊がいるのだと思った。原作でも謳われている。「ねえ、二人しかいないんだよ。他のみんなは死んだんだ、コインロッカーで生き返ったのは、君と、僕の二人だけなんだよ」
劇中でもDによって言われている。「コインロッカーに捨てられたくらいでえばるな」

それでは、生きることができたハシとキクは、悲痛を訴えてはいけないのか。そうではない。そうではないはずなのだ。
特異な環境というのは、矛盾した二重の視線を彼らに投げかけさせる。"絶対的に"悲痛とは誰にもあるもので、比較して物を言うべきではない、お前だけが痛そうな面をするな、という声と、その一方で"相対的に"お前はかわいそうだよな、という声の両方を。


事前に原作を読んだときに思い出したのが、宮藤官九郎についての文章だった。既存の作家を別の既存の作家で言い表すのも頭の足りない行ないだとは思うが。

宮藤のドラマの登場人物たちもまた、ほとんどの場合、およそ普通とは言い難い状況に置かれている。(略)しかし彼らはそんな不運を、逃れられぬ絶対的な運命にはしない。(略)
ひとことで言えば、宮藤が描き続けているのは「普通」そのものではなく、生き生きとした「普通」が獲得されてゆくプロセスにほかならない。宮藤の根底にあるのは、「普通」こそが豊かな生の営みであるが、それはいまや所与のものではないという認識である。これまでのドラマの常識を覆すかのような一見ゆるいけれどラディカルな宮藤の試みの数々は、登場人物たちが、死と隣り合わせの日常のなかで「普通」を獲得するために捧げられているといえる。*1

もっと端的に言えばそれは、ドラマ『流星の絆』で静奈(戸田恵梨香)が言った「遺族が笑っちゃいけないの」という訴えだ。劇中の三兄妹は子ども時代に両親を殺されるという不幸を「背負わされた」存在である。
Dは、ハシに、キクに、いばるなと言いながらメディアに流すのだ。「コインロッカーに遺棄された子どもと母親の再会を!」
同時に投げつけられる言葉の、思考の暴力に、人は痛めつけられるのだ。
そうして各人がその矛盾に無自覚であり(もしくは気付いていながらもどうしようもなく)、自分の"絶対的な"痛みに囚われて生きるからこそ、それは結局時代のどこかでなくなるわけではなく、どこまで世代が下ってもそれぞれが痛みに苛立ち、もがき、経験することでしか解決され得ない。ハシが、キクが泣き、叫び、傷をつくり再生へと向かう物語はあって然るべきなのだ。


パンフレット寄稿の

だが舞台にかかってしまうことのおそろしさもまた感じたのだ。こんな破壊への衝動とやさしさのないまぜになった作品を、パフォーマンスとして提示してしまう、エンタテインメントとして消費してしまうほどに、いまの社会は、いまの社会の「壁」は頑丈になってしまったのか、と。

という小沼氏の言葉は(始まる前とはいえ)えらく舞台版を下げられてしまったものだなぁと最初思ったが、分からないわけでもない。そこには一次制作者から小説という形で個に渡されていたものが、別の誰かの解釈や演出を経た上で大衆に渡ってしまうこと自体への腹立たしさのようなものがあるかもしれない。実写化なり何なりで常々我々自身も感じ得るものだ。ただし、小説という形にせよ渡った先での感覚や感傷が人それぞれのものであることは不可避であり、そこからの派生を規制できないことはどうしたって受容せざるを得ない話なのだとは思う。*2
それでも舞台化への抵抗が拭えない人もいるだろうということも分かる。この作品はとりわけ相対化できない。ハシの、キクの痛みが決して容易に取り上げられてはならない彼ら個人の絶対的なものであることを叫ぶのがこの『コインロッカー・ベイビーズ』という作品なのだろうから。
そういったことを踏まえてでも、舞台『コインロッカー・ベイビーズ』は成功を収めたと思っている。ハシとキクの痛みは考えていた以上に、十二分に鮮烈に伝わったのだから。


真田が演じる駅員の言葉から舞台は始まる。未だ暗転もしない劇場内で、微かな客席の残響と新宿だ、と告げる構内アナウンスが混じり合った中だ。確かに雑多な雰囲気のままで始まることに初め戸惑いはあったが、意図として考えればあれは「地続き」であることの提示ではないかと思う。普段の私達の世界で起こる「異変」にしろ、さぁー今からイベント始まりますよ!と触れ回られて始まるわけではない。誰かは気付き、誰かは素通りするような景色の中に火種は潜みいつの間にか燃え広がる。暴発する。
「暑いな。暑い」
彼の閉めるコインロッカーの音と共に、暗転。つんざくように赤ん坊たちの声が喚き始める。
「熱い。熱いよ」
ハシとキク以外の、死んでしまった嬰児たちの悲鳴。彼らは後々2人の催眠療法の場面、及びハシがテレビで作家のことを知る場面で再び現れるが、舞台に組まれた連なる「箱」のセットから出ることはできない。
(ただし同じ格好で出てくるのは他に3つ、ハシがカナエの催眠術で赤ん坊に戻ってしまったときと、アネモネのワニの国サイリウム隊、ダイバーがダチュラの恐怖を語る場面である。1つめはハシがコインロッカーの出自に囚われていることの現れだと考えていいと思う。アネモネ親衛隊は「あれかな…始球式とかなんとか死後のほうが生き生きしてる貞子みたいなやつかな…」みたいなことをぼんやり考えていた。わざと薄暗い方向に考えるのなら、「生きてさえいればこの子たちだって何でもできたのに!」みたいな訴えを得られるかもしれない…。ダイバーとの絡みに関しては、ダチュラという中身なり記事の伝達という場面の性質なりで現実味よりも不気味さを表現できればいいと思うので、そういうイメージ先行かなぁと思う。)
そういえば、ハシとキクとが同じ場所から出てきたのも印象的だった(中段中央)。M01コインロッカー・ベイビーズの終了後は同じ場所へ帰っていくが(下段中央)、それ以降はカーテンコールに至るまで二股に別れていく姿との繋がりが好きだった。股。同じ股から出てこようが、同じ出自を抱えていようが、互いをどれだけ思い合おうが、2人は同一の存在ではない。別個の姿を歩んでいくのだ。
それからはっしーがハシを、ふみとがキクを演じることによって、ハシのほうが体格がいいというのもとても好きだ。キクが兄貴、キクは強い、そうして気弱なハシ、というのが2人の素地だと思うが、実際にキクの方が大きいと威圧感があったり、2人の役割がより記号的になってしまったように思う。精神性に関係なく体は成長してしまう、というのはそこに自覚的にされたときに苦しみが現れて、物語としての魅力が生まれる要素の1つだと思うし、逆に相対して細いその体の中に押さえ込むほどのエネルギーが常に張っているというのもキャラクターを好きになる一因だと思っている。
友人はキクのことを「ハシモンペ」と言っていたし、私はどちらかというとハシを「ブラコン」などと身も蓋もなく言っていたのだが、そういうところを含めて、河合橋本という歴史を持つ2人がこの2人を演じたことは大きくて、正直今後『コインロッカー・ベイビーズ』をこの2人以外で舞台に掛けるのは相当難しいだろうなぁと思っている。(違和感こそあれ成功しない、というのとは違うけれども)正直真田でも。脚本演出が全く変わってそれこそ音楽劇からも外れるんだったら話は違ってくるけども。


先述の暑い/熱いのように転換でセリフに使われる言葉が意図的に被る(タイミングではなく言葉が)場面も面白かった。薬島*3への鉄条網を跳び越えたキクへのアネモネの歓声とタツオの逸した笑い声が(これは実際の声も)重なってるのは超笑った。あの超かわいいアネモネの歓声と音の高さ合わせてくるタツオちゃんの笑い声…そりゃおくすりフルスロットルしなきゃだよ…。
あとはDからハシのことを知らされて、拳銃を持って出ていくキクに「キク待って!!!」と悲痛に叫ぶアネモネの後に、按摩の客が「…効く…!」って言ってるとこ。気付くと一瞬間抜けなんだけど、あっという間にそこからキャスターとキク、自分で名前もつけなかった、生後十何時間しか一緒にいなかった息子に保っていた日常を剥ぎ取られて、あの上り詰める山場前の一瞬の間にはなっているのかなと思う。
何より明らかに意図的に重ねられているだろうと思うのが、M17アネモネの「殺してあげる」の最後と、M18ハシの「愛の荒野」冒頭だ。2人は歌う。
『愛してるもの』
2人のシーンというと、裁判後退廷するキクに向かって「ダチュラを忘れたの!」と叫ぶアネモネを見下ろして「…キク、苦しんでるのに」と呟くハシの対比がある。「のに」の後にはアネモネを非難する言葉が込められているのだろうか。
ダチュラだ。思い返せば、舞台中、ハシはダチュラを共有させてもらえていないのだと気付いた。催眠術でハシが赤ん坊に戻ったとき、Dに揶揄され暴力を受けたとき、キクはハシの側でダチュラという言葉を出すが、一貫して共にその言葉を唱えるのはあくまでアネモネである。「愛している」キクに、分かたれることで愛を示されることもハシにしてみれば苦しみの1つだっただろう。何もかもにだ。みんなの役に立ちたい、みんなに幸せになってほしい、そう願うだけの愛している全ての誰かに捨てられるという嘆き。
「…キク、もっと参ってると思ってた。だって裁判のときあんなに元気なかったじゃないだから僕、一緒に考えようって思ってたのに!!」
「僕は捨てられた、広い広い広い広い広い、コインロッカーの中に!!!」

常軌を捨ててしまったハシにキクは歌う。目の前の全てが壁だ。その中でかわいがっていた「犬」、和代と行った場所のはずである「デパート」すら壁だと歌われたことに初めは驚いたが、そうだ。思い出は、しがらみと表裏一体である。(舞台では出てきていないが)自分を「コインロッカーから見つけた」犬、自分を「赤ん坊に戻した」デパート。
時に負の要因は自分の道を細く狭める枷になる。次第に荷重を増して首を締めていく呪いのようなものだ。「ああやって生を受けた自分は、世界を恨まなければならない」「ああいった目に遭った自分は、その元凶を殺さなくてはならない」そういったろくでもない生き方にしばりつけようとする呪い。

精神科医は言う。「大切なのは、変化したのは自分たちなのだと気付かせないことです。思わせるのです、変わったのは、この世界のほうなのだと!」
世界が寛容になったほうが、出自が変わったと思ったほうが、意識の変化は容易だ。痛みが取り除かれた世界では、恨むことを知らない。だが本当はそれでは足りないのだ。それでは駄目なのだ。だから治療は破綻する。自分の中の"絶対的な"痛みは消え去ってなどいない、どんなに奥底に押し込めようと、忘れたつもりになっていようといつかは、向かい合うしかないのだ。だからこそ2人は、生の中でもがく。生き続けるために。痛みを噛み砕き飲み下し、腹に据えて生きるために。


正直なところ、キクの撒いた"ダチュラ"が実際に東京を真っ白に塗りつぶしてしまったのか、というのは未だに分からない。人の絶えた瓦礫の街でただ破壊に勝ち誇る姿というのも醜悪なメリーバッドエンドのようだし、かと言ってこの作品で安易にただただ意識が変わって「一度死んだつもりでがんばる」などという展開にもしようがない。ここまでだらだらと書いたくせに尚、そのラストを現実味を持って解釈できないのだ。
ただこれだけは思う。彼らは自分たちが何をしてもこれが自分だと言える、「俺たちはコインロッカー・ベイビーズだ」と言える力を、手に入れたのだと。
それは、陳腐な言葉で言えば「普通」ということだ。一部ではあるけど、特筆することじゃない。コインロッカーという出自を自分のものとして飲み下した。物語は、彼らが自分にとっての「普通」を獲得したことに他ならなかった。




*1:ユリイカ』2012年5月号 特集「テレビドラマの脚本家たち」 岡室美奈子宮藤官九郎は「普通を目指す」 ツッコミとフィクションの力」

*2:などというのは私が舞台版も好きだから言えることであってな!私の望むもの以外絶対に殺すマンになる感情も分かりすぎるくらい分かるんやで…

*3:舞台では汚染地域としか言われなかったので結局読み方が分からないままである…やくしまでいいのかなぁとは思うが

生き物と僕とにまつわる寓話

稽古場を出ると、にやにやと楽しそうな顔に眺められる。
「…なんですか」
壁にもたれて待つという演出をするのも多少面倒くさい。いやまあこの人の場合そういう"ベタ"が好きな昭和の人間だからなぁと、こっちからも笑い返した。カオルくんは組んでいた腕をほどくと頭をかきながら、タスク、どーよ今回の筋書は?と見上げてきた。濃いまつげが上向きになり不敵な顔を見せる。角度も決め込んでいるのかもしれない。
「どーよって」
「ていうかあいつは?まだやってんの?」
「稽古つけてますよ。タケとウタのところ」

今回の題目は幕末、ことに明治維新が舞台のものだった。若くその跳ね上がるほどの身体能力を売りの一部としている俺たちの組としては当然のように、そこには大掛かりな殺陣が組み込まれている。
二人はとりわけ年少の存在だ。新入りというほど経験が浅いわけではないが、こと所作が必要なものとなるとまだ十分な技量が身に備わっているわけではない。拾われたのには年の差がある。
俺もついさっきまでは一緒になって面倒を見ていたのだが、突き放されて出てきたのだ。
「お前たちは同じ軍なんだし戦う必要ないだろ」と。


あいつはそういうやつなのだ。稽古の最中から既に、二人に自分への敵対意識を植え付けようとしている。役に入るとすぐにこうだ。ある意味血が上ってる。あいつの顔はもう、崇拝する軍隊長ーーそれは目の前にいるカオルくんが演ずるーーのために謀略すら図る奇兵のそれだ。そうして俺は、戦場で幾度かまみえた末最終的にその命の灯をかき消すーー義兵の役だった。
「まあーそりゃ頼もしいこと。こっちの軍に入れて正解だったなー」
「…楽しそうっすね。俺、カオルくんならあいつのことこっちにやると思ってましたよ。だってこっちがヒツジくんが隊長じゃないですか」
「あぁそう?いやぁーだぁってねぇ俺」
ヒュウと口笛でも吹きそうな面持ちのカオルくんは更ににやりと笑い、俺を指差して続けた。
「番になってるやつ同士が戦うとかって、超ーっ好きで燃えるの」


「ねぇーカオル、ツガイってなに???」
彼が表情を決めたところで、後ろから無造作にひょいと、無邪気な顔が現れた。
カオルくんが驚きはするものの振り返って口を挟む間もなく、流れは怒涛となる。
「アキそれはな、だいたいのところ男女のペアを指す。簡単に言えば夫婦ってことだ」
「えぇーそっかひぃやっぱ頭いいー!っていうかえっ!タっちゃんたちって夫婦なの?どっちがお嫁さん?タっちゃんの方が背ぇ高いからタっちゃんお内裏様すんの?」
「バッ、バカ俺はな!そういう下世話な話で言ってないんだよ!やめろそういう想像させんの!見たいかあいつのドレス!」
「俺は兄貴として喜んで送り出すけどな。目元なんか女らしいし、意外ときっと似合うんじゃないか?」
「けっこうゴツいぞ?!」
「っていうかカオル、恥ずかしくなるんならそういう言葉使わなきゃいいのに」
「うっせーわ!お前らがへっ、変な風に言うせいだろうが!そんなつもりでなんか言ってないわ!!!」
…一挙に、波のような応酬に巻き込まれて差し挟む隙を見失った。
問いに答えたのは一緒に現れたヒツジくんだ。先に触れたように、この度は俺の側の軍隊長として立っている。あいつには負けるにせよ、俺も十二分に、彼のことを尊敬している。
くるくると表情を変えるのはアキ。年は俺たちの一つ下でありながら今回の役柄は副隊長であるーーそれは彼が、この組の中核となっていることを言外に示していた。拾われた時期は、そう変わらないというのに。それでも彼を、どうしても憎みきれないというのは、背丈も伸び青年期になった今も失われない天性の爛漫さによるものだっただろう。彼が俺たちを愛するように、俺たちも皆彼を愛していた。
「変かな?キリンと言うなればウマだし、がんばれば番えるんじゃないか?」
「いやそれ何の話っすか」
ヒツジくんがさも平然と話を続けるのに、ようやくツッコんだ。ウマはまぁあれとして、キリンって俺のことか。そりゃあ背丈のことでそう自称したこともあるけど。っていうかただでさえ夫婦の想像で苦笑いしか出ないのに、その上獣姦みたいな話やめましょうよ。
「…まぁそういう番の話はともかくだ何も交われって言ってるわけじゃない。それにあいつの前でならお前には、こっちのキリンが似合ってる」
苦い顔を素直に出していたらしい俺に対してそうして至極真面目な顔をして、銀色の缶が、目の前に掲げられた。

「……そっちかよ!」
正しい反応が分からず出足の遅れた俺に代わってツッコんでくれたのは隣のカオルくんだった。
ハッハッハッハッ!と高層ビルの屋上にでも立ったヒーローのような笑い声を上げているヒツジくんを、アキが呆れた子どものように口を曲げて見ている。
「なぁタスク。お前は何にだって、あいつの神様にだってなれるって、忘れんなよ。何かあったら空を駆けて、迎えに行くんだ。いいな」
ヒツジくんは最後にと何かを伝授するかのように、輝かせた目で俺の両肩を掴んだ。
…なんだ。なんの話だ。アキに、酔っぱらいー!、と引きずられていくように連れていかれる人を眺めながら、俺とカオルくんとで互いに呟いた。

「マジ、酔っ払うと尚更筋がわかんねぇなヒツジ」
「…はぁ、まあ」
「…お前、まだ未成年だっけ?」
「まぁ、ギリギリ」
「呑まれるなよ」
「…はぁ」



「なんかヒツジくん笑ってたけど。何してたんだよ」
少し息の上がったまま落ち着かせようとゆっくり放たれる声と、汗の気配がする。今度は俺が驚きにすぐさま振り向かれない番だった。
「おっ終わったのか。タケとウタは?」
「…へばってますけど…一応ここに…」
「うわいた」
カオルくんの問いかけにようやく向きを変えてよくよく見ると、その背後に二人が一緒にいるのにも気が付いた。壁に手をつきつつ、まだ音が漏れるような声でなんとか話している。
「で?なぁさっきのって」
ヒツジくんのこととなると気になって収まらないらしい。更にせっつくように睨め上げるので仕方なく俺が口を開いた。長い、黒々とした睫毛が濡れた目を縁取る。

「…俺とお前が、番だっていう話だよ」
「はぁ?」

汗に濡れた前髪の下、眉が上がる。胸がじくりとした。
未だに。未だに、だ。
目の前の男から、心を開ききったような素振りは、与えてはもらえないでいる。

「いや何もな、お前のドレス姿想像して笑ったわけじゃないんだよむしろあいつ似合うと思うって言ってたし」
「いや結局何の話なんですかそれ」
疲れてあまり考えたくなさそうにした結果垂れ流れるカオルくんのセリフは更に混乱を招く。兄貴分相手では分が悪いように控えめに言うのに対して、傍らで少しずつ生気を取り戻してきたらしいタケが、あぁ、と気付いたように声を上げた。

「タスクくんたち二人が、欠け難い対だってことですね」


タケが閃いたようにそう言うと、ウタも、たぶんそうっすねと同調した。
番って、まぁ男女のことも言いますけど、普通に一対のもののことも言いますよ。
俺たちの中でと言わず世間一般で問うても学のある部類に入る二人が言うのだ。間違った知識でもないのだろう。カオルくんはようやく言いたかったことが報われたとでも言うような顔をしていた。


「だって、タスクくん分かってます?俺たちを殺陣で稽古場に残していくとき、すごい目してましたよ」


そいつを手にかける時が来たとしたらお前らじゃない。それは俺のものでしかないんだって、それが当たり前みたいな。






暗い瞼裏を陽が刺したせいで眩しく、何度かしかめた後に目を覚ました。

ーー夢を、見ていたのだ。体を起こす。
(何年前だ…?3年、……4年…)
あちこちの骨をゴキリと鳴らして尚、その後に見たはずの表情がうまく思い浮かばなかった。自分の感情は覚えているのだ。俺にしても、役と同化したようなーーあるいは宛て書かれたーー感情はあいつ同様に沸き立っていたのだということを。同じだと、いうことを。

あれから何年も経っている。状況は随分と変わった。タケとウタは組を離れた。まだ幼いとも言える年齢ではあったが、それでも守り育てなければならない対象を見つけたのだ。別の場所に分かれはしたが交流を持ち、よい関係を築いていると言える。
カオルくんたちの組から、俺たちも巣立った。
そう、『俺たちは』巣立ったのだ。



ひとりで目覚める朝も、次第に慣れてきたように思えた。
そう自信を覚えようとしたせいだろうか、寝起きの散漫になった頭を鴨居にぶつける。
その瞬間鮮明になった。
『それは俺のものでしかないんだって、当たり前みたいな。』
その言葉に、滲むような愉悦と、そうして泣き出しそうな表情が掠めた、あいつの揺らぐような姿が。



駆けろと。本能が囁いている。

数と文字とにまつわる寓話

やぁー良かったなぁーと笑いかけて目を細めると、瞳に光が差してその黒々とした色が尚更印象を強める。少し首を傾げると同じように艶を持った黒い髪が揺れた。僕たちの中で一番年嵩であるにも関わらず、少年のように無垢な仕草を挟ませる。彼はこの人のこういうところを、好いて止まないなのかもしれない。神様、という義符は伊達ではないのだろう。実際そのくらいには、彼はこの人に惚れている。とうに同世代の役者の中、舞台上では居並ぶものはいないと言ってもいいほどの立ち振る舞いを見せるのに、彼は褒める言葉をかけられると、まるではしゃいだ子どものように顔を赤らめて破顔した。
あとはどうかなぁ。お互いに動物の名前を持ってるから、なんか似通うところがあるのかなぁ。隣に座るてかてかした彼の顔と、斜向かいの整った顔を眺めながら微笑ましく思った。

よかったなと、ヒツジくんは零すのだ。
ヒツジくんは、今日の興行の感想を立て板に水と言った調子でとめどなく述べてくれていた。どこに記録装置を隠しているのだろうと疑うくらいに、細かな場面、子細な表情の変化一つひとつを挙げて、その文体で表していく。僕自身は直の繋がりがあるわけではなかったが、まるで孫弟子のような扱いでそのおこぼれに預かった。うれしい。この人の言葉には嘘がない。僕は彼曰く「サっちゃんは自分に厳しいから」というような質なのだけど(だってまだまだ実力不足なのは本当だ。学びたいことも山のようにある)(だから、今が楽しくて仕方がない)、褒められることは素直にすんなり、うれしいのだ。僕を見て隣の彼が「サっちゃん子どもみたいだねぇ」と笑う。どの口が、と拗ねるとこぞって尚のこと笑われた。それでも、うれしい。


実際のところ、僕にしても今日の興行は成功だったと思っているのだ。旗揚げ公演だった。ずっと慕っていた彼と、それから兄と、友人と。余所からの助力をもらわなければまだままならない部分もあるのがもどかしかったが、全力を尽くした舞台だったと思っていた。ヒツジくんの隣、要するに僕の向かいでは今度は兄が、ヒツジくんからの話を受けていた。二人はほぼ初対面のはずなのだけど、兄は何にしても卒がない人間だし人好きのする質だ。にぎやかに進む流れの中で、ヒツジくんが勢いか間違えて発した劇団名も、何てことのないように訂正の言葉をかけた。最後のそれいらないですって、俺たち一つですもん。ヒツジくんも、あぁそうだっけ悪いなぁユズ、と眉を下げて笑う。顔の前に立てる片手のその指もきれいで一挙にも愛嬌があるようで、この人にせよ大概人好きのする人なのだと思った。それにしてもこの間会ったときも言い間違えてたなぁ。時々あるよね。いっつもあれどっちだったっけって迷って、結局間違っちゃうやつ。博の点がいるかいらないかとか。
ヒツジくんは本にも音楽にも詳しい。今日の話が落ち着いてきたところで、話題は最近の心情に残った文句へと移っていた。久々に読み返した本でね。たとえお話の世界だってルールがなくちゃならない、部分部分が首尾一貫していて、ぴったり整合しなくちゃいけない。そういうことが書いてあったんだ。それって俺たちが肝に銘じておかなきゃいけないことだよなぁ。確かにそうだと頷く。夢を語る仕事ではあるけど、あまりにご都合主義でも、逆に何かを度外視してあまりに誰かにばかり犠牲を強いていても、それはダメだよね。歪な取り決めはいつか破綻する。世界はぴったりと合うようにできてなきゃいけない。ピースをはめこむことで、もっと広い場所が開けていくみたいに、さ、そういう風に生きられたらいいよね。

そんな、思ったままに口をついた言葉に任せて、それから一息をおくと、視線が集まる。輝くような、にやつくようなその。焦って口元をわななかせた。ちょっと我に返ると一気に恥ずかしい。サっちゃんいいこと言うー!かっこいいー!と年少の僕を冷やかすように(あるいは彼の場合本気で)(兄の場合は冷やかしだ)囃す。調子に乗って擽る手を隣から伸ばしてきたので、体をよじりながらはたき落とした。それでも追ってくるから腰の辺りがこそばゆい。涙が出そうだ。もう一度払ってから体勢を整えようと、目元を軽くこすって、それからソファに手をついたときにヒツジくんの笑う顔が見えた。

「それで」

その、黒々とした瞳。

「それでお前は、いつあいつのところに帰るんだって?」



一瞬何のことだか、分からなくて、その人称が誰のことを指すのか、なぜこの人は途端にこんなに穏やかに笑ったまま話をするのか分からなくて、ーー分かった瞬間に体温が引いた。
この人の言葉には、嘘が、ない。この人のこの言葉は、本心なのだ。間違いだと思っていた、言葉さえ。

「…あの、何のことですか」
「だから、お前がいつ帰るかっていう話だ」
「帰るとか帰らないとか、そういうの、…だってそもそも、あそこが俺の家だって、そういうわけじゃ」
「そういうわけだろ?俺はずっとそう思ってたしそう思ってるよ。お前たちは有徴だ、双数としてくくるに能う人間だって」
「いやけど!」
彼とヒツジくんが交わし始めた。
隣で、目の前で流れていく会話。上滑りしていくような気配さえしている。
「ちょっと、ちょっと待ってくださいって。さっき僕らのことたくさん褒めてくれたばっかりじゃないですかぁ」
「ベターだって褒めない道理はないさ。俺は今マストの話をしているんだ。このままじゃ無徴のSだ。ばらばらと順当に数えられる、お前はそうじゃない」
慌てて取り繕う風に会話に入った兄貴にも、ヒツジくんは笑ったままだ。整った顔。目尻の笑いじわと、目立つ涙袋のラインが繋がる。美しい顔。そうして言葉が続く。
「お前たちの有徴の文字は、俺たちとも似通ってて好きだったんだ。最も、俺たちの場合は4と1を繋ぐ文字だったし、始まりを表す文字だった。お前たちの場合はまさに双数を示すんだって、未だに思っているよ。対を成して機能するもの、翻って一つのまとまりとしての意味を持つと認識されるもの。お前たちはそうだっただろ?」
「違う、そんな大層なものじゃない、俺たちは、…だって、そうでなきゃ!」
「同じ名前まで持ってよく言うよタスク」


その言葉が決定的だ、と思った。二人を眺めるしかないまま浮かべる。二人。目の前のタスクくんとヒツジくん。タスクくんと、彼の隣にいた、同じ名前を持った、もうひとりの。
「できた話だ。義符が違うだけの同じ名前。人間って義符が当てられてるのもお前らしいなぁって、俺はお前たちのそういうところも買ってたんだよ」
本当に、人間くさいやつだって。本当にかわいいやつだよ。だからこそ、お前にはいるべき場所があるって、許してやりたいんだ。
神様の義符を持つ人が言う。許す、という言葉。
タスクくんは普段からの水の量の多い目を揺らがせて、茫然としたように前を見ている。出したい言葉があるのに、喉につっかえて話せないように。

「なぁサトル。お前からもはなしてやってくれないか。こいつが元いた、いるべき場所に行けるように」
ヒツジくんが笑う。
お前もさっき言ってくれたろ?歪な取り決めはいつか破綻するんだって。世界はぴったり合うようにできてなきゃいけないって。

思い出す。
もうひとりに当てられた義符。
それもまた、この人と同じく神様なのだということを、僕は分かってしまっていた。







*義符…(広義)会意文字及び形声文字として成り立つ漢字を作るパーツのこと。 (狭義)形声文字において音を表す音符に対して、意味を担うパーツのこと。おおよそ偏に相当する。
*無徴…言語において一般的な形を表出すること。 例)英.三人称単数現在/複数のS 
*有徴…言語において特定の条件下で特殊な形を表出すること。特別。 例)英.三人称単数現在/複数でESがつく場合 例)古い時期の印欧語族などにおける双数。単数、複数に対し、二つのものが対をなして機能し、従って一つのまとまりとしての意味を有することを際立たせる際に使用された


さもなくば一握の砂を

以前の記事で、阿久悠の詩を引用し「ジャニーズJr.と甲子園は相通ずるものである」という暴論を打ち出したことがある。まあ彼ら自身が、というよりもこちら側が描写するスタンスとして、と言うのが正しいのだと思う。

幸いにも図書館にあったので、先日完全版として編まれた詩集を読むことができた。氏が亡くなる前年までの足掛け27年にも及ぶ連載からなっている。500ページ弱。タウンページくらいでかい。*1

その27年間に及ぶ毎夏の15日間、氏はテレビの前で一日の4試合分の一投一打までを凝視し、その一日の一番心が動いたシーンを詩に残していったのだという。*2

 

僕は当日の注目カード一試合を見て……と依頼した。ところが野球は筋書のないドラマ、どこでいつ、どんなクライマックスが生まれるか判らないからと、阿久さんは全試合をフォローする。*3


野球に特別通じているわけでもない自分であっても、聞いたことのある選手の名前もまじえ、またそうでなかろうと、年をめくり戦歴が重なっていくと、見も知らぬその選手の、高校の、都道府県の感情的な軍記の姿に否応なしに巻き込まれていった。なんていうか、タイムスリップでいっとき触れ合った人物の最期を書物で見届けたような気分。そんな経験ないけど。

 

さて、何故高校野球が好きなのかと云われても、答に窮する。余りに多くの要素があり過ぎるからである。(略)胸を叩きつづけるから、毎年見るし、毎試合詩を感じるのである。それは、どっちが勝ったとか、負けたとかは関係ない。ぼくの問題なのである。
スポーツを競技者の側から書いたものは沢山ある。傑作もある。しかし、スポーツを見る側から書いたものはない。
ぼくは、一球の行方が見る側の胸をどう云う叩き方をするか聞きたいと思っている。


あとがきを読み、そうだなぁ、詩は一貫して「見る側」から書かれている、だからこそ身に覚えがあるような感覚に追われるのだということに気が付いた。またその観戦のスタンスは、「いつどこで戦況/戦列が入れ替わるか分からない」舞台で「自分の担当がどうのしあがるかどう変わるか」(あるいは広く見れば「どこで誰が確変を起こすか」)、すべてが行方の知れない環境に置かれ、その瞬間に「魅せられたい」、居合わせることに「震えたい」一心でいるジャニオタとも同じものがあると言えそうにも思う。(再びの暴論)
あと最後の一文、はてブロ巡りするジャニオタみたいだなって、ちょっと思う…(暴論の重ね乗せ)。

 


数百数十篇もの詩が読まれた中で尚自分の感覚を振らすものを、と抜き出してみると、自分が見たい姿に共通するものは野心、あるいは自尊心であり、また同時にその裏を貫く未成熟さなのかな、と思う。
(なお、以下の引用は一篇の全体ではない)

 

 

汗を流し 砂にまみれ
時に血と涙までもまじえて
ぼくはここへやって来た
何ものにも代え難い月日が
音たてて過ぎて行き
ぼくを小さな戦士として
甲子園へ押しやった

 

甲子園のマウンドに立つ
立つからには憎まれたい
今 この場に立って
さわやかだの
無欲だのといわれたくない

 

やはり ぼくは勝ちに来た
勝ちに来た

 

(「さもなくば一握の砂を」1980年8月9日一回戦 日川(山梨)対南宇和(愛媛))

 

「立つからには憎まれたい」
っ超ーーーーー!!!真田のモノローグに!!!つけたい!!!!!!!!
立つことは憎まれること、と背負っている感じもいい。これぐらい、ガツガツしているといい。舞台も時も、彼らには限られている。

 

 

それを気迫と見るか
平常を失った昂揚と見るか
眼に熱い光を持ち
動作の一つひとつが跳ねる
仙台育英
それを余裕と見るか
劇的な興奮を避けた姿と見るか
トゲ立つところが一つもない
落着いた動きをする
上宮
それが対決する前の両校の
炎と風の印象だった
(略)
コンマ以下の差であろう両校が
片や 夏に吠え
片や 夏に跪き
熱風と草いきれの中で
季節の猛々しい踊りの中で
狂おしいオペラは幕を閉じた

 

(「対決のあと」1989年8月20日準々決勝 仙台育英(宮城)対上宮(大阪))

 

草いきれ!私草いきれって言葉大好きなんですよ!!! こう、夏の草の青臭い湿気、べとりとした汗がはりつく、風が吹くと一抹の冷気が出る感覚のする言葉。

もはや血の滲むような努力なんて、誰もがしているのだ。誰にどう優劣があると言い切れないのも同じだ。全ては預かり知らぬ"誰か"の采配で、一瞬で決まってゆく。

 


その中で、豹変するかのごとく変貌を遂げる少年が出ることもあるだろう。

 

 

よりしなやかに よりしたたかに
勝つための本能を身に備えて
やわらかく しなりながら 君は投げる
剛であろうとするはやりは消え
(略)
もはや 手をさしのべて
可愛いとささやくことを許さない

 

(「愛しの甲子園」1980年8月14日二回戦 横浜(神奈川)対江戸川学園(茨城))

 

この詩の解説では「愛らしいと思えた要素のすべてが、闘争本能の未熟部分であったことがわかるのだ。」と添えられており、今断トツこの言葉を将来贈りたい大賞はうみんちゅである。えっうみんちゅが男になったら超絶かっこよくない?!男すぎて死ぬやつじゃない?!

 


けれど、その自信の中には恐れもあるだろう。
舞台は、いつだって盤石なものではなく、個人の努力を置き去りにする。

 

幸運は吝嗇で
決して気前よくふるまってくれなかった
幸運に出会うためには
待つことは許されない
常に幸運より早く駈けて
巡り合いをつくらなければならないのだ

 

勝敗は気まぐれで
勝利の予感に対して いつもさからう
努力は怠惰で
ぼくらの努力を見落とそうとする
青春の過酷で
時代とひきかえでなければ
充足をくれない

 

(「逃げるなよ蜃気楼」1980年8月20日準決勝 天理(奈良)対横浜(神奈川))

 


舞台は、無慈悲さを曝す。

 

 

甲子園って何でしょうね
と問われたら
そうですね
やっていたことがやれない子と
やったこともないことがやれる子と
少年を二種類に分けることでしょうね
と答える

 

(「大いなる証明」1994年8月11日一回戦 江の川(島根)対砂川北(北北海道))

 


それでも、私たちはそこに立つ彼らを見届けることをやめられないのだ。

 

 

 

なぜと問うなかれ
それぞれが
それぞれの神話と再会するのに
なぜが必要なわけがない
甲子園は鏡であり
人々は同じに見えて全く違う
心が汗をかく祭典を見ている
一億人の祭りに見える人は悲しく
一人の祭りが一億行われている
と 思える人は豊かだ
だから
なぜと問うなかれ*4

 

 

 

舞台の上に居る我が担当たちは、それぞれの覚悟と光を十二分に背負って、重荷を買ってそこに立っている。
そこには、甲子園と違い自動的な"卒業"はない。オートマティックな退場は未練悔恨にもなれど、もしかしたらどこかで理由にもなるかもしれない。「だって、これで終わりなんだから」

 

 

終わりのない道ならば、共に見据えたいと思うのだ。人いきれの中、光に身を焼き立つ、我らが自担の行く先を。

 

 

 

*1:http://www.aqqq.co.jp/koshien/koshien_top.html

99~06年のものはweb上にも残されている

*2:晩年は体調の問題もあり、準決勝、決勝の詩のみとなっている

*3:p.448「甲子園の詩」はこうして生まれた

*4:出典メモするの忘れた…バカ…何回目かの開会式か一回戦の詩でした

五月晴れ 御旗を掲げて (*サ∀ナ*)まるっ

クリエのくくりで改めて他担さんに触れていただくことも増えてきた昨今、しかし「真田くんってどんな人?」と問われても、我が担当ながらマジ筆舌に尽くしがたい。

自信満々に(*サ∀ナ)若者の略語とかみんな分かんないでしょ?KD=「気持ち悪いけど大好き」だよ! とのたまうし(正しくは高校デビュー)、靴紐結びながらでもトイレでも寝るし(靴紐のときは5分くらい動かなかったので野澤さんに (;のωん)もしかして…死んだ…?!と本気で心配された)、なんかうまくいかなかったときに「あーもうダメだ、仏の道に入ろう…」とかつぶやいてるし、ごく最近ご存知の話で言えばイラスト伝言ゲームで「アダムとイブ」を繰り出した上で、苔で作った作品は「もうすぐ終わってしまう牧場を見つめる人(端の方が砂漠化している)」なのである。

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謎の生き物としての面を挙げればおそらくキリがない。

それでも真田の確固としたものを挙げるとするならばそれは、演技班という立ち位置だ。


実のところ13年の『心療中』以降ドラマ出演自体は途切れているのだが、入所の04年にすでに1本主演ドラマの場をいただいているし(『四谷くんと大塚くん』)、名の通った『1リットルの涙』『金八先生』を含めJr.としては結構な数のドラマ経験を持っている。去年は翻訳劇『TABU』主演も務め、この6月には『コインロッカー・ベイビーズ』での5役兼役も控えている。この辺りの歴は、生半可な"メディア班"ではなく"演技班"として主張していきたいところである。

で。その彼がここしばらく言っているのがこれだ。


(*サ∀ナ)真田です!真田丸に出たいです!


言って出られるとも限らないのだけれど、諦めずに言い続けている我が自担。
しばらくずうっと言っている感覚だけど実際どのくらいだ?と自分でも気になったのと、ちょっと興味を持つきっかけになるものかなぁと思って、引っ張り出してみることにしました。

 

ーーーー

ひとりで長野へ行こうと思ってるんだ。なんでかと言うと、上田城をはじめ、信州のあのへん一帯は真田幸村や“真田姓”を持つ人のゆかりの地らしいから。オレも過去帳や戸籍帳を使って自分のルーツを探ってみたものの、江戸時代より前のことを調べるのは難しくて、正直、自分と長野につながりがあるのかはわからないんだけど、同じ真田姓を持つ者として興味を持ったからには「とりあえず行こう!」と思ったんだ。それで、大学の論文も“もし真田幸村を演じることになったら、どこを訪れればいいか”をテーマに書くことにした。そしたら、いつか真田幸村を演じることになったとき役に立つだろうし、できることなら2016年の大河ドラマ真田丸』にも出たいな…とか思ってね(笑)。 D1409

 今思ったけど、明治ぐらいまではご先祖遡ったのだろうか…遡れなくもないか…。

これは放送前の話。制作発表が14年5月とのことなので、9月号取材が7月中ということを考えると、決まってわりとすぐの時点から主張していたわけである。
「いつか真田幸村を演じるとき」ってもちろんタイトルロールは突然達成できることはないだろうけども、どうなんだろう、いきなり幸村本人というポジションを得るには来年のジャニワか滝沢歌舞伎に戦国時代をねじ込んでもらえばいいんだろうか。いやでも高地先生も豊臣秀頼やってたりするしな…でも歌舞伎も11年以来出ていないのでここらで殴り込みかけてもらいたい(過激派)。


ところで先日も
(*サ∀ナ)朝からべろんべろん!!!
と溺愛ぶりを見せていた真田家の愛犬はずばりサスケちゃんである。言わずもがな猿飛佐助に由来して真田父が名付けている。さすが真田家の父。トイプードルのサスケちゃん。
お写真はこちら。

 

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かわいいよ。かわいいんですよ?!えっあっ犬にはお洋服着せるタイプなのねとかいう発見もあるんですよ!


_ 人人人人人人_
> サングラス <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄

 

 

 

ひと回りもふた回りも大きく成長した真田佑馬に、'16年の夢を聞いた。
「願望はいっぱいあるんです。シェイクスピア劇もやってみたいし、白井晃さんの演出を受けてみたいですし。でもやっぱり、“真田”の姓を持つ者としては、大河ドラマ真田丸』に出たいなぁ…なんて(笑)。いつか声が掛かる日を夢見て、頑張ります!」 STAGE SQUARE Extra'16

常に(笑)がついているのがいじらしい…。

真田の場合、ギターもボイストレーニングもキックボクシングも映画鑑賞も、みんなみんな「芝居の仕事につながれば」と思っている人だ。苦しくない?と思う。一般的に見れば手遊びの、遊びに行く、息を抜くための場所を技術を追求する場所にしなくちゃいけなくて、つらくない?と思ってしまう。まあこの場合でもそれがすべてじゃなくてちゃんと楽しんでいる面はあるだろうし、サーフィンとかもっと別のところに開放感を求められてはいるのだろうけど。
他のJr.にとっても言えることだろうけど*1、エンターテイメントに従事するって大変だなぁと、考えながら、多くのものを求めてしまっている。

 

 

【2017年3月までに達成したい目標】
“真田”の名前をいかして、大河ドラマ真田丸』に出たい!
(16-17Jr.カレンダー付録DATA BOOK)

この設問だとなんとなく安心できる。あくまで『真田丸』には固執しすぎず期間限定の目標として掲げて、ゆくゆくは"真田"にとらわれない大河出演が誰の眼に見ても満を持した形で叶えられればそれでいいなぁと思っているのである…。
しかしかねてから不安に思っている。

真田ちょんまげ似合いますかね…!

潤くんの武蔵ちゃんみたいな感じだったらいいのかな*2。真田の場合、内博貴から濱田岳まで顔の幅があると思っているので、信長協奏曲の家康やった濱田くんみたいな感じかな…とイメージ想定をしている…

 

 

名前といえば、ずっと「真田丸」に出たいって言ってるんですけど、まだオファーは来てないですね…(笑)。でもまだ諦めてはいないですよ! 誰が見てくれているか分からないので、言い続けます! TVfanCROSS vol.18

相っ変わらず(笑)がついてるよ!もうなんかひとまず、ドル誌で時代劇の格好やらせてあげてもらえないものですか!!!
ちなみにここでは乗馬への動機は

 

(サ∀ナ)乗馬は、名前に「馬」がついてるのに乗ったことないのはダメだなって思って。

 

というよく分からない理由にすり替わっている。いや時代劇出たいからって言ってたのでは?!!そんなに馬こだわるんならちゃんと三冠馬はさんかんばって読んで! (サ∀ナ)さんかんうま
あとそれなら中山の優馬さんに村を焼かれたのち復讐を誓う生き別れの双子物語Wゆうま主演ストーリーやろう。馬に!乗るんだ!!!そして誤解が解けたものの刺し違えて炎に沈んで死ぬ。

 

 

ーーーー

手持ちを数えあげてみると計4回で思ったほど多くなかったのだけど(たぶんとりこぼしてる)、ともあれNHKには届くだろうか。

コインロッカーの舞台が終わっても、放送は折り返し地点である。*3
真田佑馬の真田丸出演を祈念して。

 

 

 

*1:前にSHOCK関連の雑誌でモロが「普段はバレエのレッスンとか詰め込んで朝から動いてるから、月に1回くらいは怠惰な自分を許してもいいかなって」みたいなことを言っていて、マジ…常に怠惰をきわめた人間ですいません…って気持ちになった…

*2:武蔵ちゃんはこちら。

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かわゆい。

*3:いや撮影は進んでることはわかってるよ

I call your nameless name now./ジャニヲタ英語部投稿の日本語版

唐突に、恋と愛の違いはなんですか?と問われた場合、あなたは何と答えるだろうか。

あっけなくもひとつを挙げるとすれば、「恋/こい」は訓読みであり、「愛/アイ」は音読みであるということだ。
 
 
訓読みと音読み、という名前は、なんとなくだけ耳馴染みがあるだろうか。おおざっぱに言えば、漢字の中国語での読み方が元となっているのが音読み、対して、その漢字に日本語の言葉を読みとして充てたのが訓読みだ。
充てた、というところが肝である。
要するに、もうちょっとざっくりすれば、漢字の日本語訳が訓読みなのだと言っていい。「dog」という英語に対して「いぬ」という日本語を充てるように(dogとただ書いてあっていきなりいぬと読む人はそういないと思うけど、そこが漢語の根深さだ)、「恋/lian」という中国語に対応する日本語(の指示対象なり概念なり)とは「こい」だと考えて、それを組にしたのだ。
 
 
以下はちょっと引用が長いので飛ばし読み可。でもすごく面白いです。飛ばす方は次のまで。
『漢文を読む本』*1にて、
「恋」には「レン」という音読みに対して「こい」という訓読みが存在している。「愛」には、その概念を一語でぴたりと言いきる名詞の訓読みが、ない。*2
「恋」は、今ここに無い対象への渇望感にもとづいているらしい。
(中略)
「こい」という和語は、「恋(レン)」という漢語の訳として適切である。
 
と挙げる一方で、16世紀のキリスト教布教の例を通じて「愛」という言葉への苦心が述べられている。
当時「愛」という言葉は「愛欲」「愛染」のような暗く断ち切られるべき煩悩を表す仏教用語として定着していたため、ポルトガル人宣教師はAmorという言葉に対して「愛」は使えずやむなく「ごたいせつ」と訳したという。
 
そのころの日本人には、中国で儒教などが用いていた意味での「愛」は、定着していなかった。(中略)孔子がもっとも重んじる「仁」という徳目は、どういうことか、という弟子の問いに、孔子は「人を愛す」ることだとこたえている。(中略)「愛」というのは、もともとはっきりと対象をみさだめて、その存在をたいせつにし、いとおしむことである。目のまえに存在しない対象への渇望感とは、かなりちがう。いま、ここに、存在している対象の、美点も欠点もわきまえて、それでもなおその対象をたいせつにする行為だろう。「愛」には、対象の美化でなく、対象への判断がなくてはならない。「神の愛」を「デウスのごたいせつ」と訳した宣教師たちの語感は、たしかなものだったというべきだ。
 
 
まあ長々と引用して何が言いたかったかというと、「漢字と意味って元々引き剥がせる別のものだったんだなぁ…!」というものすごい驚きを今更になって持ったんだということです。
まとまってなくて え、結局何が言いたいのお前、と思われそうな気もしますが、この文を読んで、「なるほど、漢"和"辞典だものなぁ…!」と新鮮に、それこそ目から鱗が落ちるような思いをしたわけです。漢字辞典じゃないわけです。だって、英和辞典とは言うけど、アルファベット辞典って言わないもんなぁ(それぞれあるはあるだろうけど)。*3
漢字には、それに充当すると思われる日本語を、充てることができる。それはおそらく、別の言語間であっても。ここからがようやく、はてブロジャニーズグループに寄せた話です。
 
以前に「ジャニヲタ英語部」に参加させていただいたときにぶち当たったのが、「担当」という言葉をどう英語に直すかということでした。
素直に和英辞典を引いて出てくるのは「charge」でした。チャージ。私のチャージは真田佑馬です!!!なんていうか!そら英語での語感を知らないからなんとも言い切れないけど!でもなんていうか情緒が!ない!そらエナジーチャージはできるかもしらんが!なんかチャージ料とられそう!!!
逆に英和でchargeを引くと、まずは「(対価、料金などを)請求する」とありました。I charge Sanada. 大丈夫?真田よこせやみたいにならない?いやよこせやって思ってるけど。まあたぶんこれだと「(人に)請求する」って使い方で、実際アイドルという相手に夢を見たり押し付けたりということで、請求するっつっても間違いじゃないのかもしらんけども…。
 
まあとりあえず、chargeではうまいこと自分の気持ちが乗らないなと思ったわけです。
これは何も別言語間の移行に限りません。オタクそれぞれが「担当」という言葉に対して浮かべる概念が違うから、こんなにも世の中に「担当とは」みたいなブログが溢れかえるし、いわゆる「担降り」ブログというものも日々切々と流れていくんでしょう。
 
結局個人的には、my earnest talentというものを充てました。私個人にしかないこだわりが彼に対してはある、というのを主張したかったのでmyを入れたかったのと、「切実な」という語を引いて出てきたearnest(本当はその後ろにはhopeとかexpectationとかの感情を表すような言葉を入れるものらしいけども)を、それから、私が真田の何が好きって、演技の才能(とは呼ぶべきなのか)、および、「それをつきつめたい、そのためにやれる限りのことをしたい」って、がむしゃらに一心になれることで、それが真田の才能だと思っているわけです。それで最後にtalentを持ってきました。
さっきも言ったとおり、英語での正しい語感なんて知らずに言ってるから実際のところどう響くか分かんないんだけど。気持ちが乗っている、というところだけひとまずはあればいいです。私がいちばん切実に気持ちを動かす相手、その才能のかたまり。
 
 
 
また、一人一人の世界のとらえかたの違いによっても、言葉は違ってあらわれます。「ゆび」と言ったとき、すらりとして細い指を思いうかべるか、とごつごつ力強い指を思うか、人によって違います。
なるほど、毎日の生活の中では、私たちは言葉のおおよそ共通している部分で、すませています。そうでなければ、くらしていけませんから。ごつごつしていても、すらりとしていても、手の先にあるあれ(文中傍点)は「ゆび」ということで、すませます。
けれど、日常の言葉では表現できない体験や思いを何とか言葉にしようとしたとき、私たちは真に新しい言葉を求めます。それは、たった一言である場合もあります。また、何千・何万という言葉をつらねた、長い文章になることもあります。
つまり、日々のくらしの中では、言葉はおおむね伝達の道具でしかありません。けれど、未知の体験や感覚や思想をあらわそうとしたとき、言葉はただの伝達の道具でなくなります。だいたい共通していることを伝達するだけでは、すまなくなっているからです。ごつごつしていても、すらりとしていても「ゆび」ですが、ある人のある指に心を動かされるという体験をしたとき、その指そのものを言葉にしようとしたら、ありきたりの言葉を失うでしょう。
日常の、単なる伝達の言葉を失ったとき、表現の言葉、詩が生まれ出てきます。そして言葉のほんとうの姿、そのほんとうの価値は、こちらにあるのです。なぜなら、言葉は、電話器にくっついている電話番号ではないからです。現実の世界をどう区切り、どのようにとらえるか、という人間の問いかけが、言葉の中にはふくまれているからです。*4
 
 
 
明治期などには、意味の合いそうな漢字に振り仮名をつけるやり方で、日本語を表記することも多く書き言葉に持ち込まれたと言う*5
 
 
もしオタク諸氏であれば、「担当」という漢字に何という振り仮名をつけるだろうか。あるいは、どう別言語に移すだろうか。きっと様々な答えがあると思う。
なんたって言葉には恣意性がある。
 
恣。
訓読みは、「ほしいまま」である。*6
 
 
 
 
 

*1:安藤信広 1989年、三省堂

*2:漢字の使用範囲が広すぎても狭すぎても文章が読みにくくなるので、「みんなだいたい一般的にはこれくらいを使おうねぇー」というのが"常用漢字"である。例えば「愛おしい(いと-おしい)」とか「愛でる(め-でる)」というようなのは訓読みではあるけれども、常用で決められた範囲からは外れる"表外"の用法にあたる(ついでに言うともちろん名詞ではない)。もちろん、それくらい読めるという人もいるだろうけど、あくまで常用かどうか、というのは人がつくった目安としてのルールなので、言い出しても詮ないというか、そういうのを議論するのはまた別の場所である。他にも例えば、小3で習うことになっている「悪」を「アク」「わる-い」と読むのは常用、「にく-む」と読むのは表外。

*3:漢字なら説文解字とか康煕字典とかね

*4:安藤信広『漢詩入門 はじめのはじめ』1989年、東京美術

*5:「「混淆(ごたまぜ)」や「動揺る(ゆすぶ-る)」のように、当該語と語義の重なり合いがありそうな漢語を書く漢字によって表意的に書き、それに振仮名を施すというやり方である。」今野真二『百年前の日本語ー書きことばが揺れた時代』2012、岩波書店。念のためだけども、「混淆(コンコウ)」「動揺(ドウヨウ)」が音読み。

*6:「たとえば、「動物のイヌ」の概念をi-n-uという音列で表現する必然性はない。もし仮に両者の結合が必然であるなら、いかなる言語も同じ方法で音列と意味が結合していなければならない。つまり、「動物のイヌ」は英語でも中国語でもi-n-uという音列になっているはずである。しかし、実際は異なる。」斎藤純男、田口善久、西村義樹編『明解言語学辞典』2015、三省堂。要は、お互いに伝達しあわないといけないからある程度はかたまってるけど、指示対象・概念と音なり文字なりとの間の結びつきに本来必然性はないということ。