夜の最中の寓話
控えめに響いたノックの音は同居人のそれではないだろうと思い込んだのが原因だった。後輩のどちらかだ、そう考えたのは半分当たり半分外れる。扉の前にいたのは気まずい顔をしたタケとウタ、それからその真ん中で両腕を捕らわれたーー否、寝顔をさらして担がれた、奴だった。
「すみません、俺らが今日の稽古のところもうちょっと、って話しかけたら勢いづいちゃって」
勢いがついたのにこうも満足げに眠っているとはこれいかに、なんて深く考えなくても分かる。
「まず話しかけられることでそもそもテンション上がるし普段から芝居のことしか考えてないから喋りだしたらとどまりないしとりとめもないし、ただでさえ今日体力使ってたのに疲れに気付かないで気持ちだけわぁーーってなるから、で、ちょっと目を離した隙に倒れてただろ」
「…さすがタスクくん、見てきたみたいに話すんッスよね。それね」
俺が一息で返した言葉にウタが微妙にひきつった笑いをする。それは、タケとの微妙な身長差のせいで、支えたこいつの重さが僅かばかりにでも多めにかかっていそうなせいかもしれなかったが。
先達たちであればここで放り捨てて俺に正面から預けさせるところだったろうが(意識のある俺にばかりいたたまれなさが残るやり方なのでやめてほしい)、できた後輩たちは目線で少し伺いを立てた後に、部屋の中への連行を再開した。
「あの、どっちすか寝床」
拾ってもらったここで暮らす以上、基本はどこも相部屋だ。それはタケとウタの場合もそうだし、例外と言えば最年長のヒカリくんくらいだ。率先して声を上げたタケに奥、転がしといていいから、と指し示すとしゃがみこんだときにバランスを崩したのか3人で布団に顔から突っ込んだ。誰も手をつけない状態だったのだから仕方ない。バスンと音がする。途端に面白くなったのかけたけたと笑いながら腕と布団とから抜け出した2人に対して、結局放り投げるのと大差ない形で投げ出されたにも関わらず、こいつは相変わらず平和な寝息を立てていた。
「あぁー、あぁーやべ。超ウケる。この人まだ寝てるし」
衝撃や声程度ではそう起きないだろう。朝だって人にアラームをかけさせておいてちっとも起きやしない。
…こいつの場合、睡眠が何よりのリカバリーと、リセットであることを理解しているものだから、許さざるを得ないと信奉している、自分の質が悪いのだけど。絶対直では言うもんか。
…けれど。
あーあ、と立ち上がって横をすり抜けた彼らを呼び止める。
「あ、夜にすいませんでした。そのまま俺らの部屋で寝せといてもいいかなーって、ちょっと思ったんですけど」
「あ、いや、むしろわり、寝てる人間運ぶの大変だったろ、で、いや、そのそれと」
却って先に謝りを立てる彼らに少し舌の回りがもたついた。
それは、
「あのさ、ひっくり返しといてくれる?そいつ」
後ろ手に指を差した。不思議そうな顔をされるから続ける。
「こいつさぁ、窓の方見て寝ないと落ち着かないっていうんだよ、いつも、…だからさ」
さっきうつ伏せで倒れ込んだところを肩なり足なり掴んで整えられたその体は、こちら側を向いた状態だった。
ーー…正直な話。この配置で、俺を視界に入れずにいようとする結果が、その癖を生み出しているのだろうと思っていたのだ。口に出す試しは、なかったけれど。
それこそ口元がひきつりはしなかっただろうか。そもそも少し目を伏せがちだった。どれだけよっぽど俺の表情の方が雄弁なことだろう、と改めて苦笑いが沸きそうになったところで、返事の間が空いた2人にはてなが浮かんでようやく顔を上げる。2人は俺と目が合ったあと互いに顔を見合わせて、ーーパッと同時にこちらを見て言った。
「よくないスか?もう完全に寝落ちてるんだし」
「は」
「そうすよ、だいちさっき俺たちのとこで意識落ちたときも、窓の位置とか関係なかったしこの人」
いやそれは、俺との場面じゃないからじゃないのか、そう言ってやりたかったがその前に、2人はもう一度軽やかに扉を開ける。
「さっきも言ったじゃないすか。ーータスクくん、案外分かりやすいですよ」
タケがにやりと笑ってひらりと身を返す。後ろに続いたウタがやっぱりにやにや笑って、そっちの人もね、と部屋の奥を指差して消えていった。残されたのは俺と、寝息だ。
…なんだよ。なんなんだ。
なんだかくたびれた。もう俺も寝てしまおう。電気を落とした。
暗がりに慣れなくとも、この部屋の距離感には慣れている。近い自分の布団に潜り込んで向こうを眺めたところで、大してものも見えやしない。
ーーそれでも。いつか近くなるのだろうか。欲しくてやまないその視界に、俺を認めてくれるのだろうか。
そうなら、どんなにか。
ふとせがむ思いでにじるように畳を這わせた腕の先が、何かに触れた。
「うわ、」
途端にびくついて上がった声で分かる。こちらの肩が跳ねる。
指だった。
意識していなければこんなところにまで、伸ばされやしない、ましてや今みたいな声なんて起きて、…起きていなければ。
バタリと勢いよく寝返りを打った。俺は扉の方を睨み付けながら必死に意識を飛ばそうとする。いつ目を覚ましたんだこのたぬきやろう、この隣に固執しているのは俺だけじゃないんだなんて、僅かでも錯覚ならさせないで、もっとスポットライトの下で認めろ、この、この
ののしり言葉を解き出そうと思ったのに叶わない。
何か向こうからの足掛かりがあるそのことが、俺は、うれしくてたまらなかったのだ。
夜の最中、この意図せずして訪れたもらいものを抱えていては、俺はもう確かに、背中を向けるしか堪えようがなかった。
我が人よ 真幸くあれと 二十四度
今年の真田出演舞台2本は、共に赤ん坊の泣き声から幕を開けた。『コインロッカー・ベイビーズ』に関しては既にまとめているので暇のあるときに読んでもらえればいいと思うが、ところで今日は、真田の誕生日である。
1992年生まれ。今年24という年男の彼を思えば19の頃から追いかけているのだから気付けば早いものだ。そうは言っても彼が事務所に入ったのは11歳のときなので、全然誇れるような長さの担当歴でもないのだけれど。
『ダニー・ボーイズ〜いつも笑顔で歌を〜』という舞台は、脚本上の粗を探すとキリがないような部分も確かにあったのだけれど*1、それでも心の動いた良い舞台だった。
サチオの生涯は1990年に幕を閉じる。自由な空を飛び続けた彼は自らの飛行機の事故で亡くなるのだ。直接その瞬間が描かれたわけではない。それでも、自担が死ぬというものを見せられるのはこんなにもつらいのだとは思ってもみなかった。例えば今までの彼の役柄の経歴から言って、こうなんか、罪を罰せられて死ぬとか、狂気で逸して死んでしまうとかならありそうだったかなぁとは思うのだけど、いやまぁそれはそれでたぶんつらいのだけど、だがここで感じたつらさは、それはおそらく、「周囲に夢だけを与えて先に逝ってしまう」ことに原因がある。まるで、人のために生きるのが自分の使命なのだと微笑んでいる人が、追い縋ってもここにいてくれないような。どうして自分の幸せを追ってくれないの。
読み込みはまだ浅いんですけどね、と注釈するが、じゅうぶん、真田は役へとのめり込みつつある。物語の後半にはめちゃくちゃ重要なセリフを見つけたようで、「なに、これ、すごく重い2行!……があるんですよ」
事前に舞台誌のインタビューでこう言っていたのもあってその『2行』に気を留めていたのだが、それはまさに死後の(と思われる)彼が、「あのね、」とあまりにも優しい、泣きたくなるほどやわらかな声で語りかけ始めるその言葉だと私には思えた。
「僕たちは自由だから。生きているだけでいいなんて、そんなのは夢じゃない。自分が何をして生きたいか。それが夢だよ」
初見時、なんでこの人はこんなにも、自分を追い詰めるような言葉を口にするんだろうと思った。ただ漫然と生きているだけではダメなんだと。自分の道を決めて、追って、飛び続けようとしない人生に価値はない、そんな風に自分を責め立てているんじゃないかとつらくなった。
それは常々、この人に漂う自分への厳しさを思っているからだ。いつも仕事のことを考えていて、立ち位置に、技術に、行く先に悩んでいて、自分を許そうとしない。そういう生き方の人だから、サチオとして死んでしまう姿を見て、「そんなに背負わなくていいよ、ただ幸せに生きていてよ」という気持ちと、「そもそもこの人の思う幸せを私なんかが規定できやしないんだ。彼がそう安穏とした道に価値がないと感じてもがくのならその後ろ姿を見守るしかない」という気持ちとが同時に立ち昇って泣くしかなかった。
何年か前にとっつーの連載で、イノッチが真田にかけた言葉が引かれたことがある。
「お前が21歳まで生きてこられたことに感謝してる人がこの世界に最低二人はいるんだから。お父さんとお母さんはお前が生きてるってことだけで幸せだと思うよ」
読んだ当時は、こんな言葉をかけられるなんてどれだけ思い悩んでるんだよなどと草を生やす程度には気軽に見ていたのだけれど、いざ死なれると本当にもう生きているだけでいい。それだけを本当に切実に思ってしまった。
そもそもラッキーマン、と称されつつ、サチオに対する考察はほのかに悲しさがある。
いつも前向きで、幸せそうに歌っていると見えるかもしれないけど、幸男は脳天気な男じゃない。(略)"僕はラッキーだから"というセリフが何度が出てくるんですが、すごく気になったんです。それって逆に、ラッキーになりたい自己暗示じゃないか。みんなに"幸男はラッキーマンだから"と言われるプレッシャーじゃないか、と。そういうところを掘り下げていくことで、幸男の深い人間性が見えてくると思うんです。
人には何かしら崇拝するものがあるとして、幸男にとってはそれは歌。歌を崇拝することは彼を救うけど、現実問題としての彼は救われていないかもしれない。だからこそ彼は歌いたいんです。
幸男だって認められたくて一生懸命だったんだって、歌えばみんなが寄ってきてくれるから歌うんだって、表には出てこない本音を伝えられる演技をしたいと思います。
二段目の解釈は難しいのだけれど、要は「この先には希望がある」と縋にすること、なのではないだろうか。歌っていれば、このステージにいれば、僕は幸せになれると信じて立っていくことで手一杯なのだと。信じていなければ、やっていけやしないのだと。
こう言葉が出るからには、それを引きずり出すだけの感情がどこかで自分の中にもある。そういうことなのだと思っていた。
それがある朝、唐突に、あの『2行』への異なる解釈が瞬いた。
冒頭、戦争を経験したツネは言う。
「夢、…ですか。寝てるときに見る夢じゃない、夢。
――死なないこと。生きて、いけること。
全部まとめて、…運が、いいこと」
それに呼応する形だとするならば、サチオの言葉は、こう言っているんじゃないのか。
死なずに生き抜くことが夢だなんて、そんな世界は終わったんだよと。もっと欲張りになっていいんだよと。
「僕たちは自由だから。生きているだけでいいなんて、そんなのは夢じゃない。自分が何をして生きたいか。それが夢だよ」
どうか、もっと欲張りになって。
自分のしたいことを、自由に、手に取れる、そうして人の輪の中に笑っていられる道を歩んでください。
真田佑馬様。24歳、おめでとうございます。
ここで生きていてくれて、私は、泣きそうなくらい、幸せです。
*1:満鉄勤めのサチオ父は戦後5年すぎまで難を逃れてあんな上流っぽく暮らせてたのかとか1950年サチオが生まれたときにかぶさる爆撃の演出はなんだとか、1990年没のツネさんが50年産婆さんやってサチオが1人目って言うの計算合わなさ過ぎるとか(原作のツネさんは2010年ぐらいに引退式をやっている)、1976年1月が本公演ならプレビュー前の稽古って75年の話じゃね?とか、その当時ホットの飲み物にコンビニカフェみたいな飲み口付きのフタなくねとか(隣に座っていた友人が大千秋楽でそこを確認しだしたので鬼!と思った(笑))。あとはとにかく「歌っていられれば、そうして人とつながっていられれば場所には頓着しない」質が見えた原作のサチオだからすんなり繋がったパイロットも、舞台ではトニー賞への悔しさを一つ挟んだことで捉え方が難しくなったなーと思う。
これまでのブログ記事を本の形にしてみたまとめ(付追記)
なんというか新しい文章を書こうにも呪詛か恨み節か地下から漏れ響く泣き声みたいな感じにしかならなさそうで全然書けることがなくて、っていうところで、ふと思い立った。
「今までのやつをまとめよう」
以前購入させていただいたことのある『少年コレクション』さんなどオタクによるオタクとしての同人誌というのがとても面白かったので、別に誰に見せるわけでもない自分用だけども、まとめるなどしてみようと思ったのです。コピー本だけど。
ということで、これまでの記事を小冊子にしてみた試みの覚え書き。
①紙に落とす記事を選抜
なんだかんだでこれまで雑多に50強の数記事を残してきていたらしいのだけども、そこから選ぶこと22こ。とはいっても内2つは英語部参加版とそれの元の日本語版とで重なっているので実質内容的には20になるのか。私は6割も外すほど何をそんなに書いてきたんだ…。
とりあえず画像多用ありきのものとか他ジャニメインのもの、あと創作文はあらかた外して、おおよそのんさなに関するものと言葉に関する記事が自分の核だなぁーと思うのでその辺りを持ってくることにした。
とりあえず手始めに目次っぽいものを作ってみて、「(*゜∀゜)本っぽくない?本っぽくない?」とぼんやり悦に入る。
これは出来上がったやつの目次。後ろ半分が文字が薄くなっているのが、後々の恐ろしさである…。
②表紙用の紙を買う
(*゜∀゜)せっかく作ってみるんだからね!ちょっと紙とか特別に買ってみてもいいジャン!? みたいな気持ちで、紙屋まで出向いてみた。
初っぱな入り口からいきなり「ブライダルにどうぞ!」ときらびやかな、まことにきらびやかな紙のサンプルが招待状の形で十数枚並べられていて、オタクがオタク用の紙選びに来てすみません…とめげかけたが。
先にいた方はデザイナーか何かのようでもう御用達みたいな手慣れた様子で紙のカットまで頼んでおり更におののくも、むやみにお店の方に声をかけられることもなく、気の済むまで紙を眺め回すことができました。
しかしどうにもピンとくるものがない。
のんさな厨なんだから赤とか青でいいじゃんと思っていたのに、いざそういう紙を見てもいまいちピンとこない。とりあえず渋い文集みたいになるのは避けたい。もうひとり来たお客さんがお店の方を質問攻めにしていたので、これはいけるのではと思って自分も尋ねることに。
「(見本ファイルを見ながら)この紙ってどこかありますか?」
「あっこれですねー(模造紙くらいの大きさゾーンで)もう廃盤になるので少ないんですけど、何枚切っても料金は同じなので、枚数ある方がお得ですねぇー」
「あっそっか、カットお金がかかるんですね…」
あまりに無知である。
「あ、じゃあそんなに枚数必要ではないので、元からA4のやつで似たのありますか?」
「これどうです?」
「あんまり色がぺたっとしてないのがいいなぁと思うんですけど…なんていうかもうちょっと…くすんだ灰色のやつ…」
私はこのコピー本をどういうテイストにしたいのか。
あくまでオタクが担当のことを書き散らしたものをまとめようとしているのだからもっと明るくしてもいいのでは!?という声が理性では鳴り響いているが、感情は「こう…地に足を縫い止められた…行き場のない気持ちのような…」的なものを求めている。厨としてあまりに活力がないのでは。
などと言いつつ、結局灰色の紙をお買い上げ。紙の名前を覚えていないのほんとダメ人間。
今見るとなんていうかこう、…墓石っぽいね…*1
その後お店の方が他のお客さんに言っていたので文具屋さんにも行ってみたのだけど、A4サイズならここでも十分見比べられそうかなーって感じでした。
<ペーパースタジアム>http://paper.main.jp
今回行ったところ。天神北を更に上っていって、博多座のもうちょっと裏くらい。歩くと20分強くらいかな? サイズをたくさん選びたいときとかアドバイスをいただきたいときは良さそう。お店の方がそれならこう、みたいな紙を即座に繰り出してくる。
<JULIET's LETTERS>http://www.juliet.co.jp
アクロス1階の文具屋。こちらもわりときらびやかな紙が多い印象。A4・名刺サイズの紙と、イタリアンペーパーなるものが置いてあった。
<インキューブ天神店>
http://www.incubenews.com/tenjin/
B4・A4・名刺サイズだったかな? プリンターに使える紙が中心という印象だけどバリエーションはいろいろあるし、立寄りやすさではいちばん手頃かも。
③記事を縦書きに落とし込む
結局ここの作業が9割だよね…。ワードに人格があったら物理的に殴り合ってるしもはや自分に時給払ってあげたかった。
まぁやることとしては、「内容に手を入れる」ことと「体裁を整える」こととがあるわけですが、
とりあえず22記事分の文章を貼り付けられたワード「168ページです」
とりあえず22記事分のコピペを繰り返した私「」
ひとまず「文字のサイズを小さくする・二段組にする・段落ごとのスペースを削る」ことで110ページほどに削れましたが、その作業中に分冊にすることを決意した。それでも目次とかいろいろ足して上巻56ページ下巻68ページだぞバカじゃねぇの。そうだよ目次が薄いのはそこまでしか載ってないってことだよ。
で、以下が基本の書式と自分内ルール。
・文字サイズ タイトル11、本文9、注釈とノート8
・フォント 日本語:MS明朝 英語:Times new roman
たぶんひねりはない。
・基本は漢数字。雑誌の号数はアラビア数字。
・英語は横向きのまま。DVDやV6など、一部は縦書き。(いやしかし今見たらえびは横向きになってるぞ…なんだこの基準は…)
「!!!」3つくらいなら縦中横にしても見やすい気がする。「!!!!!」を1マスにまとめるとあんまりインパクトがないかも。
ライナーノーツを読むのが好きなのでそれっぽいのを挟み込んだり
あとはブログの中では軽率に顔文字劇場を繰り広げているのですが、縦書きにするとどうしても崩れるのは避けられないということで適宜やむなく消したり縦中横で処理したり。
縦中横、(サ∀ナ)(のωん)くらいならまぁいいけど、(*サ∀ナ)こういう顔にするともう見づらい。あと(サ∀ナ)は半角なせいで全部横向きになってそのままでもまぁ見るに耐えるんだけど、(のωん)はひらがなだけ縦書き、ωは横向きになるのでどうしようもない…。
縦中横ののんさな/縦書きさなちゃん/縦書きのんさん(再現)
しかし改めて、11年だか12年にはもうJr.ながらみすの8人分の顔文字が定着してて、だてさま(`ё´)とかすげぇ似てるのに真田(サ∀ナ)野澤(のωん)って潔さが過ぎるよね。いや好きだけどね。顔文字だと野澤さんより小顔になってよかったね。
以下今回のワードとの殴り合い。
・三点リーダーは和文フォントにしないと真ん中にならないことは学んだ。
・「””」のカッコの配置がうまくいかなかったんだけど、これもフォントをどうにかしないとならんのだろうか。識者助けて。
・ページ番号入れるのめんどくさい。たぶんページのセクション分けか何かしないといけなかったんだと思うけど、もうやけになって目次にも奥付にもページ番号が入っている状態である。
・なぜ! なぜ上段最後の行を埋めずに下段に行くのか?!!?! その空間の意義とは?!!?!
ともかくも格闘を繰り広げ、PDFで保存すれば準備完了です。
④印刷をする
お世話になったのがセブンイレブンのコピー機です。オタクRTで「めっちゃ同人に寄せてきたぞ!」みたいな機能のレポを見たことがあったので試したのですが、すげぇ簡単に本のページの体裁で出てきた。
やり方はこちらのページが分かりやすいです。
http://mitok.info/?p=34714&page_access=via
自分で気を付けるのは4の倍数でページを作っておくことくらいでしょうか。
出来上がりがA5 = A4に2ページ分を印刷することになるので、印刷代は「ページ数÷2×10円」。私のは上巻下巻それぞれ280円、340円にて印刷完了。
あとはコピー機に忘れ物するなよ!っていうやつですかね…最近これで何度かコピー機使ってて、USBとおつりの忘れ物に1件ずつ遭遇した。印刷物忘れるのも怖いよね…。
あとは紙を折って表紙用に買った紙と一緒にホッチキスすれば完成です!(*゜∀゜)中綴じ用のホッチキスというのを使うと楽です。
いや表紙に題字の印刷すらないていたらくだが。おうちで手差し印刷ができたり、おそらくキンコーズなど行けばそれでいいのかなと思うんですが、キンコーズ使いこなせないオタクは諦めた。
出来上がりがこれ。
折るとちゃんとページが順番になるように印刷されています。
無駄にエピグラフを入れてかっこつけてみるなど。(※「さもなくば一握の砂を」で引用した阿久悠の詩)
がんばって英文中の日本語を横向きにしたのに一部し忘れたへぼさ。
ふまたんも横向き。
附録という体裁でかっこつけてみたがるがここにもページ数が入っている悲しさ。
寓話は一段組にした。
終始誰得の代物でしたが、編集してみて結果、双数の話に始まりそれが最後寓話の紐解きに繋がらざるを得ないのは、あぁーすげぇ…すげぇ私って感じ…な仕上がりになりました。
まぁ全部おおよそブログと同じ内容なんだけど、紙で手元にあるってやっぱり面白いですね。みんな軽率に本つくるといいよ。とりあえず体裁整え直して完全版つくりたいです。今度は赤と青の紙買います。
※追記
とりあえず完全版(仮)つくりました! (仮)なのはまだ体裁不備が見つかったからです…
写真だと赤がだいぶ明るいですが、実物はもうちょっと暗い赤です。逆に青は買うときにはこのくらいでいいやと思ったけど、いざ綴じてみるともっとくっきりした青が良かったかなぁと思っている。タントというちょっと見た目革っぽい?紙です。かなり厚めだったのでただでさえ本文ページがそこそこあるのにホッチキス死ぬかと思った。
http://portal.tt-paper.co.jp/fancy/search/product_list1.html
紙がたくさん載っているので楽しい。タントな!名前今度はチェックしたぜヤフー!(゚∀゚)と思って改めて調べたらめっちゃ種類があって再び負けた。たぶん6番だとは思う…。
皆様もぜひ。
*1:一覧を見ると、おそらくフレンチマーブルだったのかなと…石と和紙のイメージ足して割る2みたいな感じの紙。
コインロッカーはどこにでもある ーーコインロッカー・ベイビーズという「普通」の獲得
ぎょっとしたのは、彼らの着衣が汚れていたからだった。着衣、というのは会見やゲネプロなどでも事前に挙げられていた「オムツ」だ。排便にまみれたオムツ、そうして吐瀉物の滲んだよだれかけ。赤ん坊たち、と名前を宛てがわれたアンサンブルたちは皆それを身につけていたのだ。
ハシとキクはきれいだった。ああ、ハシとキクの背後にすら、既に選ばれなかった赤ん坊がいるのだと思った。原作でも謳われている。「ねえ、二人しかいないんだよ。他のみんなは死んだんだ、コインロッカーで生き返ったのは、君と、僕の二人だけなんだよ」
劇中でもDによって言われている。「コインロッカーに捨てられたくらいでえばるな」
それでは、生きることができたハシとキクは、悲痛を訴えてはいけないのか。そうではない。そうではないはずなのだ。
特異な環境というのは、矛盾した二重の視線を彼らに投げかけさせる。"絶対的に"悲痛とは誰にもあるもので、比較して物を言うべきではない、お前だけが痛そうな面をするな、という声と、その一方で"相対的に"お前はかわいそうだよな、という声の両方を。
事前に原作を読んだときに思い出したのが、宮藤官九郎についての文章だった。既存の作家を別の既存の作家で言い表すのも頭の足りない行ないだとは思うが。
宮藤のドラマの登場人物たちもまた、ほとんどの場合、およそ普通とは言い難い状況に置かれている。(略)しかし彼らはそんな不運を、逃れられぬ絶対的な運命にはしない。(略)
ひとことで言えば、宮藤が描き続けているのは「普通」そのものではなく、生き生きとした「普通」が獲得されてゆくプロセスにほかならない。宮藤の根底にあるのは、「普通」こそが豊かな生の営みであるが、それはいまや所与のものではないという認識である。これまでのドラマの常識を覆すかのような一見ゆるいけれどラディカルな宮藤の試みの数々は、登場人物たちが、死と隣り合わせの日常のなかで「普通」を獲得するために捧げられているといえる。*1
もっと端的に言えばそれは、ドラマ『流星の絆』で静奈(戸田恵梨香)が言った「遺族が笑っちゃいけないの」という訴えだ。劇中の三兄妹は子ども時代に両親を殺されるという不幸を「背負わされた」存在である。
Dは、ハシに、キクに、いばるなと言いながらメディアに流すのだ。「コインロッカーに遺棄された子どもと母親の再会を!」
同時に投げつけられる言葉の、思考の暴力に、人は痛めつけられるのだ。
そうして各人がその矛盾に無自覚であり(もしくは気付いていながらもどうしようもなく)、自分の"絶対的な"痛みに囚われて生きるからこそ、それは結局時代のどこかでなくなるわけではなく、どこまで世代が下ってもそれぞれが痛みに苛立ち、もがき、経験することでしか解決され得ない。ハシが、キクが泣き、叫び、傷をつくり再生へと向かう物語はあって然るべきなのだ。
パンフレット寄稿の
だが舞台にかかってしまうことのおそろしさもまた感じたのだ。こんな破壊への衝動とやさしさのないまぜになった作品を、パフォーマンスとして提示してしまう、エンタテインメントとして消費してしまうほどに、いまの社会は、いまの社会の「壁」は頑丈になってしまったのか、と。
という小沼氏の言葉は(始まる前とはいえ)えらく舞台版を下げられてしまったものだなぁと最初思ったが、分からないわけでもない。そこには一次制作者から小説という形で個に渡されていたものが、別の誰かの解釈や演出を経た上で大衆に渡ってしまうこと自体への腹立たしさのようなものがあるかもしれない。実写化なり何なりで常々我々自身も感じ得るものだ。ただし、小説という形にせよ渡った先での感覚や感傷が人それぞれのものであることは不可避であり、そこからの派生を規制できないことはどうしたって受容せざるを得ない話なのだとは思う。*2
それでも舞台化への抵抗が拭えない人もいるだろうということも分かる。この作品はとりわけ相対化できない。ハシの、キクの痛みが決して容易に取り上げられてはならない彼ら個人の絶対的なものであることを叫ぶのがこの『コインロッカー・ベイビーズ』という作品なのだろうから。
そういったことを踏まえてでも、舞台『コインロッカー・ベイビーズ』は成功を収めたと思っている。ハシとキクの痛みは考えていた以上に、十二分に鮮烈に伝わったのだから。
真田が演じる駅員の言葉から舞台は始まる。未だ暗転もしない劇場内で、微かな客席の残響と新宿だ、と告げる構内アナウンスが混じり合った中だ。確かに雑多な雰囲気のままで始まることに初め戸惑いはあったが、意図として考えればあれは「地続き」であることの提示ではないかと思う。普段の私達の世界で起こる「異変」にしろ、さぁー今からイベント始まりますよ!と触れ回られて始まるわけではない。誰かは気付き、誰かは素通りするような景色の中に火種は潜みいつの間にか燃え広がる。暴発する。
「暑いな。暑い」
彼の閉めるコインロッカーの音と共に、暗転。つんざくように赤ん坊たちの声が喚き始める。
「熱い。熱いよ」
ハシとキク以外の、死んでしまった嬰児たちの悲鳴。彼らは後々2人の催眠療法の場面、及びハシがテレビで作家のことを知る場面で再び現れるが、舞台に組まれた連なる「箱」のセットから出ることはできない。
(ただし同じ格好で出てくるのは他に3つ、ハシがカナエの催眠術で赤ん坊に戻ってしまったときと、アネモネのワニの国サイリウム隊、ダイバーがダチュラの恐怖を語る場面である。1つめはハシがコインロッカーの出自に囚われていることの現れだと考えていいと思う。アネモネ親衛隊は「あれかな…始球式とかなんとか死後のほうが生き生きしてる貞子みたいなやつかな…」みたいなことをぼんやり考えていた。わざと薄暗い方向に考えるのなら、「生きてさえいればこの子たちだって何でもできたのに!」みたいな訴えを得られるかもしれない…。ダイバーとの絡みに関しては、ダチュラという中身なり記事の伝達という場面の性質なりで現実味よりも不気味さを表現できればいいと思うので、そういうイメージ先行かなぁと思う。)
そういえば、ハシとキクとが同じ場所から出てきたのも印象的だった(中段中央)。M01コインロッカー・ベイビーズの終了後は同じ場所へ帰っていくが(下段中央)、それ以降はカーテンコールに至るまで二股に別れていく姿との繋がりが好きだった。股。同じ股から出てこようが、同じ出自を抱えていようが、互いをどれだけ思い合おうが、2人は同一の存在ではない。別個の姿を歩んでいくのだ。
それからはっしーがハシを、ふみとがキクを演じることによって、ハシのほうが体格がいいというのもとても好きだ。キクが兄貴、キクは強い、そうして気弱なハシ、というのが2人の素地だと思うが、実際にキクの方が大きいと威圧感があったり、2人の役割がより記号的になってしまったように思う。精神性に関係なく体は成長してしまう、というのはそこに自覚的にされたときに苦しみが現れて、物語としての魅力が生まれる要素の1つだと思うし、逆に相対して細いその体の中に押さえ込むほどのエネルギーが常に張っているというのもキャラクターを好きになる一因だと思っている。
友人はキクのことを「ハシモンペ」と言っていたし、私はどちらかというとハシを「ブラコン」などと身も蓋もなく言っていたのだが、そういうところを含めて、河合橋本という歴史を持つ2人がこの2人を演じたことは大きくて、正直今後『コインロッカー・ベイビーズ』をこの2人以外で舞台に掛けるのは相当難しいだろうなぁと思っている。(違和感こそあれ成功しない、というのとは違うけれども)正直真田でも。脚本演出が全く変わってそれこそ音楽劇からも外れるんだったら話は違ってくるけども。
先述の暑い/熱いのように転換でセリフに使われる言葉が意図的に被る(タイミングではなく言葉が)場面も面白かった。薬島*3への鉄条網を跳び越えたキクへのアネモネの歓声とタツオの逸した笑い声が(これは実際の声も)重なってるのは超笑った。あの超かわいいアネモネの歓声と音の高さ合わせてくるタツオちゃんの笑い声…そりゃおくすりフルスロットルしなきゃだよ…。
あとはDからハシのことを知らされて、拳銃を持って出ていくキクに「キク待って!!!」と悲痛に叫ぶアネモネの後に、按摩の客が「…効く…!」って言ってるとこ。気付くと一瞬間抜けなんだけど、あっという間にそこからキャスターとキク、自分で名前もつけなかった、生後十何時間しか一緒にいなかった息子に保っていた日常を剥ぎ取られて、あの上り詰める山場前の一瞬の間にはなっているのかなと思う。
何より明らかに意図的に重ねられているだろうと思うのが、M17アネモネの「殺してあげる」の最後と、M18ハシの「愛の荒野」冒頭だ。2人は歌う。
『愛してるもの』
2人のシーンというと、裁判後退廷するキクに向かって「ダチュラを忘れたの!」と叫ぶアネモネを見下ろして「…キク、苦しんでるのに」と呟くハシの対比がある。「のに」の後にはアネモネを非難する言葉が込められているのだろうか。
ダチュラだ。思い返せば、舞台中、ハシはダチュラを共有させてもらえていないのだと気付いた。催眠術でハシが赤ん坊に戻ったとき、Dに揶揄され暴力を受けたとき、キクはハシの側でダチュラという言葉を出すが、一貫して共にその言葉を唱えるのはあくまでアネモネである。「愛している」キクに、分かたれることで愛を示されることもハシにしてみれば苦しみの1つだっただろう。何もかもにだ。みんなの役に立ちたい、みんなに幸せになってほしい、そう願うだけの愛している全ての誰かに捨てられるという嘆き。
「…キク、もっと参ってると思ってた。だって裁判のときあんなに元気なかったじゃないだから僕、一緒に考えようって思ってたのに!!」
「僕は捨てられた、広い広い広い広い広い、コインロッカーの中に!!!」
常軌を捨ててしまったハシにキクは歌う。目の前の全てが壁だ。その中でかわいがっていた「犬」、和代と行った場所のはずである「デパート」すら壁だと歌われたことに初めは驚いたが、そうだ。思い出は、しがらみと表裏一体である。(舞台では出てきていないが)自分を「コインロッカーから見つけた」犬、自分を「赤ん坊に戻した」デパート。
時に負の要因は自分の道を細く狭める枷になる。次第に荷重を増して首を締めていく呪いのようなものだ。「ああやって生を受けた自分は、世界を恨まなければならない」「ああいった目に遭った自分は、その元凶を殺さなくてはならない」そういったろくでもない生き方にしばりつけようとする呪い。
精神科医は言う。「大切なのは、変化したのは自分たちなのだと気付かせないことです。思わせるのです、変わったのは、この世界のほうなのだと!」
世界が寛容になったほうが、出自が変わったと思ったほうが、意識の変化は容易だ。痛みが取り除かれた世界では、恨むことを知らない。だが本当はそれでは足りないのだ。それでは駄目なのだ。だから治療は破綻する。自分の中の"絶対的な"痛みは消え去ってなどいない、どんなに奥底に押し込めようと、忘れたつもりになっていようといつかは、向かい合うしかないのだ。だからこそ2人は、生の中でもがく。生き続けるために。痛みを噛み砕き飲み下し、腹に据えて生きるために。
正直なところ、キクの撒いた"ダチュラ"が実際に東京を真っ白に塗りつぶしてしまったのか、というのは未だに分からない。人の絶えた瓦礫の街でただ破壊に勝ち誇る姿というのも醜悪なメリーバッドエンドのようだし、かと言ってこの作品で安易にただただ意識が変わって「一度死んだつもりでがんばる」などという展開にもしようがない。ここまでだらだらと書いたくせに尚、そのラストを現実味を持って解釈できないのだ。
ただこれだけは思う。彼らは自分たちが何をしてもこれが自分だと言える、「俺たちはコインロッカー・ベイビーズだ」と言える力を、手に入れたのだと。
それは、陳腐な言葉で言えば「普通」ということだ。一部ではあるけど、特筆することじゃない。コインロッカーという出自を自分のものとして飲み下した。物語は、彼らが自分にとっての「普通」を獲得したことに他ならなかった。
生き物と僕とにまつわる寓話
数と文字とにまつわる寓話
さもなくば一握の砂を
以前の記事で、阿久悠の詩を引用し「ジャニーズJr.と甲子園は相通ずるものである」という暴論を打ち出したことがある。まあ彼ら自身が、というよりもこちら側が描写するスタンスとして、と言うのが正しいのだと思う。
幸いにも図書館にあったので、先日完全版として編まれた詩集を読むことができた。氏が亡くなる前年までの足掛け27年にも及ぶ連載からなっている。500ページ弱。タウンページくらいでかい。*1
その27年間に及ぶ毎夏の15日間、氏はテレビの前で一日の4試合分の一投一打までを凝視し、その一日の一番心が動いたシーンを詩に残していったのだという。*2
僕は当日の注目カード一試合を見て……と依頼した。ところが野球は筋書のないドラマ、どこでいつ、どんなクライマックスが生まれるか判らないからと、阿久さんは全試合をフォローする。*3
野球に特別通じているわけでもない自分であっても、聞いたことのある選手の名前もまじえ、またそうでなかろうと、年をめくり戦歴が重なっていくと、見も知らぬその選手の、高校の、都道府県の感情的な軍記の姿に否応なしに巻き込まれていった。なんていうか、タイムスリップでいっとき触れ合った人物の最期を書物で見届けたような気分。そんな経験ないけど。
さて、何故高校野球が好きなのかと云われても、答に窮する。余りに多くの要素があり過ぎるからである。(略)胸を叩きつづけるから、毎年見るし、毎試合詩を感じるのである。それは、どっちが勝ったとか、負けたとかは関係ない。ぼくの問題なのである。
スポーツを競技者の側から書いたものは沢山ある。傑作もある。しかし、スポーツを見る側から書いたものはない。
ぼくは、一球の行方が見る側の胸をどう云う叩き方をするか聞きたいと思っている。
あとがきを読み、そうだなぁ、詩は一貫して「見る側」から書かれている、だからこそ身に覚えがあるような感覚に追われるのだということに気が付いた。またその観戦のスタンスは、「いつどこで戦況/戦列が入れ替わるか分からない」舞台で「自分の担当がどうのしあがるかどう変わるか」(あるいは広く見れば「どこで誰が確変を起こすか」)、すべてが行方の知れない環境に置かれ、その瞬間に「魅せられたい」、居合わせることに「震えたい」一心でいるジャニオタとも同じものがあると言えそうにも思う。(再びの暴論)
あと最後の一文、はてブロ巡りするジャニオタみたいだなって、ちょっと思う…(暴論の重ね乗せ)。
数百数十篇もの詩が読まれた中で尚自分の感覚を振らすものを、と抜き出してみると、自分が見たい姿に共通するものは野心、あるいは自尊心であり、また同時にその裏を貫く未成熟さなのかな、と思う。
(なお、以下の引用は一篇の全体ではない)
汗を流し 砂にまみれ
時に血と涙までもまじえて
ぼくはここへやって来た
何ものにも代え難い月日が
音たてて過ぎて行き
ぼくを小さな戦士として
甲子園へ押しやった
甲子園のマウンドに立つ
立つからには憎まれたい
今 この場に立って
さわやかだの
無欲だのといわれたくない
やはり ぼくは勝ちに来た
勝ちに来た
(「さもなくば一握の砂を」1980年8月9日一回戦 日川(山梨)対南宇和(愛媛))
「立つからには憎まれたい」
っ超ーーーーー!!!真田のモノローグに!!!つけたい!!!!!!!!
立つことは憎まれること、と背負っている感じもいい。これぐらい、ガツガツしているといい。舞台も時も、彼らには限られている。
それを気迫と見るか
平常を失った昂揚と見るか
眼に熱い光を持ち
動作の一つひとつが跳ねる
仙台育英
それを余裕と見るか
劇的な興奮を避けた姿と見るか
トゲ立つところが一つもない
落着いた動きをする
上宮
それが対決する前の両校の
炎と風の印象だった
(略)
コンマ以下の差であろう両校が
片や 夏に吠え
片や 夏に跪き
熱風と草いきれの中で
季節の猛々しい踊りの中で
狂おしいオペラは幕を閉じた
(「対決のあと」1989年8月20日準々決勝 仙台育英(宮城)対上宮(大阪))
草いきれ!私草いきれって言葉大好きなんですよ!!! こう、夏の草の青臭い湿気、べとりとした汗がはりつく、風が吹くと一抹の冷気が出る感覚のする言葉。
もはや血の滲むような努力なんて、誰もがしているのだ。誰にどう優劣があると言い切れないのも同じだ。全ては預かり知らぬ"誰か"の采配で、一瞬で決まってゆく。
その中で、豹変するかのごとく変貌を遂げる少年が出ることもあるだろう。
よりしなやかに よりしたたかに
勝つための本能を身に備えて
やわらかく しなりながら 君は投げる
剛であろうとするはやりは消え
(略)
もはや 手をさしのべて
可愛いとささやくことを許さない
(「愛しの甲子園」1980年8月14日二回戦 横浜(神奈川)対江戸川学園(茨城))
この詩の解説では「愛らしいと思えた要素のすべてが、闘争本能の未熟部分であったことがわかるのだ。」と添えられており、今断トツこの言葉を将来贈りたい大賞はうみんちゅである。えっうみんちゅが男になったら超絶かっこよくない?!男すぎて死ぬやつじゃない?!
けれど、その自信の中には恐れもあるだろう。
舞台は、いつだって盤石なものではなく、個人の努力を置き去りにする。
幸運は吝嗇で
決して気前よくふるまってくれなかった
幸運に出会うためには
待つことは許されない
常に幸運より早く駈けて
巡り合いをつくらなければならないのだ
勝敗は気まぐれで
勝利の予感に対して いつもさからう
努力は怠惰で
ぼくらの努力を見落とそうとする
青春の過酷で
時代とひきかえでなければ
充足をくれない
(「逃げるなよ蜃気楼」1980年8月20日準決勝 天理(奈良)対横浜(神奈川))
舞台は、無慈悲さを曝す。
甲子園って何でしょうね
と問われたら
そうですね
やっていたことがやれない子と
やったこともないことがやれる子と
少年を二種類に分けることでしょうね
と答える
(「大いなる証明」1994年8月11日一回戦 江の川(島根)対砂川北(北北海道))
それでも、私たちはそこに立つ彼らを見届けることをやめられないのだ。
なぜと問うなかれ
それぞれが
それぞれの神話と再会するのに
なぜが必要なわけがない
甲子園は鏡であり
人々は同じに見えて全く違う
心が汗をかく祭典を見ている
一億人の祭りに見える人は悲しく
一人の祭りが一億行われている
と 思える人は豊かだ
だから
なぜと問うなかれ*4
舞台の上に居る我が担当たちは、それぞれの覚悟と光を十二分に背負って、重荷を買ってそこに立っている。
そこには、甲子園と違い自動的な"卒業"はない。オートマティックな退場は未練悔恨にもなれど、もしかしたらどこかで理由にもなるかもしれない。「だって、これで終わりなんだから」
終わりのない道ならば、共に見据えたいと思うのだ。人いきれの中、光に身を焼き立つ、我らが自担の行く先を。
*1:http://www.aqqq.co.jp/koshien/koshien_top.html
99~06年のものはweb上にも残されている
*2:晩年は体調の問題もあり、準決勝、決勝の詩のみとなっている
*3:p.448「甲子園の詩」はこうして生まれた
*4:出典メモするの忘れた…バカ…何回目かの開会式か一回戦の詩でした