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一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

中田裕二水曜歌謡祭出演に寄せて

 

ふと足下を見やると、それは微かに打ち付けていた。
思わずたじろいだ。
瞬間引いた足首が派手に水音を立てる。

 

その波はぬるかった。
それでも、その温度に逆らって、そのからだは

 


*

朝日は、寝台の傍らの椅子にただ座り込んでいた。
何度も何日もこの部屋に通って、最初は苛立ちを覚えた目につくほどの辺りの白さも、意識に入らない。疲れ果てていた。部屋に響く単調な機械音の意味も頭の奥を擦り抜けていく。ただ、彼女の、灯の血の気のない腕がいつしかその白い波に同化してしまうのではないだろうかという考えを、遠い思考の中で抱えていた。
「…波」
ふいに口をついた途端、その言葉が、記憶を引っ掛けた感覚がした。朝日の弛緩していた体がぴくりと動く。
そうだ。波が。

 

 

彼らがお互いを求め始めたのはいつの頃だっただろうかと、思考が移ろい始めた。
違う。『彼ら』、だっただろうかと、考え直す。
灯は、朝日の姉である。彼女の恋は、常に一途だった。漂うように誰のものにもならない相手に、必死に恋焦がれていた。
光、という。厄介だったのは、誰をも拒まないことでひとりのものにならない、そういう意味ではなく、誰をも関心の対象としなかったことだった。そもそも、恋情というものが欠落していたのかもしれない。日々、白いキャンバスに向かうだけだ。
恋の高鳴りも、切迫も、嫉妬も、清らかさも醜さも彼女だけのもので、だけれど純粋な彼女は、それを分からない人間などいないはずなのだと信じていた。信じていたからこそ、自分にその恋を続けさせることを強要した。恋は敬虔なものであると、畏れをまとい立ち止まらせ、そのことが逆に彼女の身の内だけでその恋の純度と深度を増していった。不器用だとしか言い様がなかったが、それが彼女の愛しさだと思っていた。

 

朝日にとって灯が姉であると同時に、光もまた焦がれる人間だった。彼の描く絵は、鮮烈で、名前通り光が視界を刺すようだと、一目で心を奪われた。
経験があれば、その才が届きようのないものであることに気付いて絶望をしたのかもしれない。だけれど朝日の専門は音楽であったし、若さは純粋に憧れだけを抱かせ、彼に接触することを切望させた。そうして伴った姉と、朝日とが、彼に出会った。
唯一の姉である灯と、唯一の人間だと慕っていた彼とのどちらをとるかなど言えない。それでも、朝日は、灯の涙を見ていたのだ。遠くを見て流す涙。遠いと泣く。彼女は、彼の前では好きだと言葉を使うだけで、感情に身を任せた姿をおそれたからだ。それでいて朝日の前でそれを厭わなかったことに、却って彼との区別を見せつけられたような気がした。
躍起になって何度も彼女の感情を理解してくれと頼んだ。彼女を宥め慰め続けた。
そうして数ヶ月経ったのだ。

 

それはあまりに急で、彼女の臨界を理解できていなかったのだと思い知った。彼の部屋の階下の住人からの一報だったという。
――…真上だから、そこも風呂だと思うんですけどね、…――

 

――視界の隅で、シーツの波が縒れたのが見えた気がした。目の前の彼女。白い肌に簡素な服を纏って、深い呼吸を繰り返すその、
「……っ…!」
感覚だけが捕らえたものに数秒の間を置いて朝日の意識が明滅した。ガタンと激しい音を立てて椅子が転がる。
「灯!灯ッ!」
構わず手を力の限り握り締めた。声は震えている。それでも呼び掛ける。綺麗な顔の側で。感情のままに。
まつげが、震える。息が漏れる。朝日の。そうして遅れて、彼女の。
口元が震える。

 

もう一度、息が漏れた。
こもった声で、微かに喋ろうとしている。
「無理に喋るな、…喋らないでいい、から」
制止を意に介さず、彼女は口を開く。
「ね、ぇ」
「なに。なに、灯」
「…さっきから、ずっと弾いてた、の?」
「…え?」
床に溜まった薄赤い波。
「…ずっと、ピアノの音がしてた気が、…した…」
ふと足下を見やると、それは微かに打ち付けていた。
「…優しかった、の。メロディじゃないのに、」
思わずたじろいだ。瞬間引いた足首が派手に水音を立てる。
「ただの音、なのに、」
その波はぬるかった。
「…でも、違うよね。ピアノ、なんて、…――…朝日じゃあるまいし、…ねぇ、…光…」
それでも、その温度に逆らって、そのからだは

 


――叫んで、いた。
頬をなぶる涙の混じった嗚咽に、灯の照れくさく笑うようだった表情が曇った。
「…ど、したの、…?光…」
上げられなくなった頭の上から不安げな声が降る。
違う。
違う、灯。
俺は光さんじゃない。
光さんはもういないんだ。
自分の手で、だと言う。
こんなときにまで、不器用さが露わにならなくてもと思う。彼の指先が辿ったのは場所も深さも的確だった。
けれど彼女は、

「…ねぇ。ピアノの音、するよ…」
違う。
「…おんなじ音ばっかりだけど、…優しいの…」
違う。
「――…まるで、…光の心臓の音みたい…」
「違うんだ灯…っ!」
部屋に静かに響き続けるそれは子どものように目を細め幻を見る彼女の、心拍の機械音だった。

 


――どうして。
どうしてこんなことになったんだ。背筋が冷たい。足下は、こんなにも穏やかなぬるさに浸っているのに。

 

部屋で見つかったのは、彼女自身にも残った行為の跡と、彼が描いたらしい彼女の肖像だった。
初めて、彼が描いた人の絵を見たと意識の向こうで気付いた。

 

もし自分が思いを明らかにして伝えていたら。
こんな未来にはならなかったのだろうか。
焦がれた人をなくし、恋焦がれた人を遠くして、答えなど何も与えてはもらえなかった。
誰か。
朝日は手に縋りついたまま、ただ泣き叫び続けた。
自分とは縁のない血の波は、もうそこに打ち付けていなくても。

 

 

 

 

BGM:椿屋四重奏『漂流』

私の文章はイメージ映像なので整合性などない。