一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

一般人を煙に巻いて言いくるめたいオタクによる一説(再稿)

オタクにはとかく共通言語がある。住んでいるジャンルが違えど沸き上がる感情や行動様式、生態に似通ったものがあるのは、『ZUCCA×ZUCA』*1や『2DK』*2『トクサツガガガ』*3などの漫画を読んでいて痛感することだ。

そしてそれらの言語は、とかく“一般人”には通じない。虹が何色か問題*4ではないが、その語彙を持たないということでか何か余所の世界の人々には我々が感じること見えているものの存在を知覚してもらえないこと、あるいは取り違えられることすらあるのである。特にミーハー関連と取り違えられることなど憤慨ものである。

だからこそ、何とか一般人にも変換可能な事象に言い換えて言いくるめるのだ。以下はそういう目的の原稿草案である。



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ジャニーズJr.を追いかけるというのは、キーワードとして「高校野球」と「世界史研究」を挙げれば良いのではないかとひとまず考えている。これだけでは何が何やらだが。


甲子園というのは言わずと知れた夏の風物詩であり、連想するワードとして「一度きり」であるとか、「怪物」などというものもあるかもしれない。もしくは、まさに「ガムシャラ」の代名詞などとも扱われているのではないだろうか。
全国数千校あるチームの中からその舞台に立つことができるのは49校であり*5、そもそもが高校3年間で当たり前だが3回しか挑戦権はない。それも一度負けてしまえばそこで終わりなのである。青春を捧げた一途さ純朴さ、あるいは時として現れる不遜な怪物、それらの渾然一体とした一夏の熱狂を楽しむ。そうして真夏の炎天下、汗にまみれ土にまみれ白球を追う球児たちの姿はことさらに尊い。高校野球にまったく詳しいわけではないのだが、世間一般の中にそういった認識があるように思う。

翻ってジャニーズ、特にJr.の話である。何度かツイッターでも引用したことがあるのだが、昭和の名作詞家・阿久悠は甲子園に関しての言葉を多く残しているという。
その中で震えたのはこれだ。

舞台は人を変える
人を作る
ある人は才能に気づき
ある人は気弱を発見して狼狽する
しかし
大舞台は結果に責任を持たない
変えるだけである


「大舞台は結果に責任を持たない」
これは、ジャニーズの現場においても同様に潜むものなのではないだろうか。そうして少年たちは刻一刻と変わっていく。人の目に晒され自分の無力さを晒され見据え、次の大舞台により大きな姿で残るためにもがく。あがく。それを一夏と言わずに自分に強いているのだ。しかも高校野球と違い「限りがない」ことは逆説的に、その進退さえ他の誰も責任を持ってはくれない。これはJr.という場所にいる場合に特に顕著だと思う。
最近などは辞めジュが未来から来たりいきなり3月にデビューするから新メンバー募ってみたりよく分からないマルチ的彼女紹介してきたりと波乱の流れだったが、そういう矮小な姿にしても、きっと舞台は責任を持たないのだ。結局は本人の人間性による。*6

ここで言う「才能」と「気弱」とは、一個人の中に混在するものと思う。
ファンの中には陰の努力なり葛藤を見せられたくはないという意見もあるだろう。表面、つまり顔面および体ということではなくいわゆる「才能」に価値をおきたいというような考え方。それも一つだ。甲子園におけるプレーのように、アイドルとして光輝くパフォーマンスを見せてくれればいい。そういう立ち位置の方もいるだろうと思う。
私の場合は、「才能」に対して自覚的になりそれを鋭くさせていく様と同時に、「気弱」を滲まされて愛おしくさせられたり、そういうことも体感してはいきたいと思っている。「気弱」な部分もあるのにそれに克とうとして舞台に立ってくれるのだとなれば、尚更尊さしかないではないか。
「点数」のように客観的な判断材料がない以上、主観をより濃くするためにはそれが有用だ。


ここに来て、冒頭の「世界史」に立ち返る。
ラップ詞を櫻井翔が起こしているのが、嵐2006年のアルバム『ARASHIC』収録楽曲『COOL&SOUL』だ。
その中の一節だ。

いま居合わせる 君 幸せ
この歴史を後世に語れるだろう?*7


この一節が、二重の意味で私たちを駆り立てる。

つまりは自分の目で見たいのだ。何かが変わる瞬間を。何かが変わるかもしれない瞬間を。
そうしてそれは同時に、「居合わせていない歴史は語れない」ことと表裏でもあるし、その前史にどのような価値があり評価があり意味があったのかが、容易には分かり得ないということでもある。だから勉強するしかないのだ。今を理解するのに必要な前史の事象、それだけでは足りない。その当時の情勢(とまで言うと大げさだが)やそこに至るまでの系譜を学ばなければ理解は深まらない。

自分のことで覚えているのは、当時はまだもちろんnoon boyzであった野澤と真田が2012年、キスマイ公演についたとき『torn』のパフォーマンスを行なったときだ。06年から嵐に入り、他のジャニーズについても番組で見るなどはしていたがその程度であった自分にとっては、『torn』が誰の楽曲かから知らなければならず、そしてそれを二人がやったことがなぜこんなにも物議となっているのかがわからなかった。真田担に降りて一週間も経っていなかったこともあって*8、その日は好意的なツイートから批判的なもの*9まで、ひたすらにふぁぼっていったような気がしている。


特に『「自分たちの曲を持たない」Jr.』を担当として持つ側としては、彼らが選んだものから彼らの思想を透かしたくて仕方ないのだ。ジャニーズ所属者自身がジャニオタ兼務であることは多い。彼らが全くの何の理解もなく感覚だけで選曲しているというわけではないと思うのだ。いやまぁ単純に見ていてかっこいいからというのもあるだろうし、実際パフォーマンス楽曲にどの程度の自由度なり権限があるのかは分からないけども、少なくとも歌って踊る上での彼らの何らかの咀嚼はあるはずであり、それを考えたいのである。

まぁここまで来て世界史と言うのはやっぱり大げさだなぁとは思うけれども、時には折に触れその学びが必要になるのも確かだと思う。




要はここまで、ジャニーズJr.を追いかける際の理論武装もどきである。耽溺しつつ深く知りたい。ここをおおよその核として、そのうちもっと実践的な内容にしていきたいと思ってはいる。*10

*1:はるな檸檬によるヅカオタの方々の日々の生き様を描いた漫画

*2:特撮・ミュージカルなどの若手俳優をフィールドとする女子たちの話。武内佐千子。

*3:丹羽庭。タイトルの通り特オタの中村さんが主人公だが、女児向けアニメ好き、ドルオタなども出てくる。一般人との間の齟齬を埋める毎度の比喩は秀逸だと思う。

*4:地域によっては虹は6色や3色として扱われるという。言語が世界認識を規定するというような考え方のときに出てくる話。ただし不勉強のためそんな深く言えない。

*5:現在は全国で4000弱らしい

*6:まぁ幼い頃から浸かってきた環境に対して、一言手を引いてあげる大人はいるべきだと思うけど

*7:改めて歌詞のきちんとした表記を確認して、「いる」が漢字であることに痺れた。前々から「いる」という動詞は状態ではなく動作を表すものではないかと考えたかったので、漢字で 書かれているといかにも有徴という気がする。翔さんがどれだけ自覚的に漢字を使ったのかは分からないが。

*8:担降りが4月2日、キスマイ公演が8日

*9:大倉錦戸以外がやっても無意味、という意見やそこまでは行かずとももやもやを感じていたりなど。それについては特に思うところはない。

*10:耽溺という言葉を引いたらわりあい否定的な意味だった。代わりを見つけるべきかなぁ。