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一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

I call your nameless name now./ジャニヲタ英語部投稿の日本語版

言葉

唐突に、恋と愛の違いはなんですか?と問われた場合、あなたは何と答えるだろうか。

あっけなくもひとつを挙げるとすれば、「恋/こい」は訓読みであり、「愛/アイ」は音読みであるということだ。
 
 
訓読みと音読み、という名前は、なんとなくだけ耳馴染みがあるだろうか。おおざっぱに言えば、漢字の中国語での読み方が元となっているのが音読み、対して、その漢字に日本語の言葉を読みとして充てたのが訓読みだ。
充てた、というところが肝である。
要するに、もうちょっとざっくりすれば、漢字の日本語訳が訓読みなのだと言っていい。「dog」という英語に対して「いぬ」という日本語を充てるように(dogとただ書いてあっていきなりいぬと読む人はそういないと思うけど、そこが漢語の根深さだ)、「恋/lian」という中国語に対応する日本語(の指示対象なり概念なり)とは「こい」だと考えて、それを組にしたのだ。
 
 
以下はちょっと引用が長いので飛ばし読み可。でもすごく面白いです。飛ばす方は次のまで。
『漢文を読む本』*1にて、
「恋」には「レン」という音読みに対して「こい」という訓読みが存在している。「愛」には、その概念を一語でぴたりと言いきる名詞の訓読みが、ない。*2
「恋」は、今ここに無い対象への渇望感にもとづいているらしい。
(中略)
「こい」という和語は、「恋(レン)」という漢語の訳として適切である。
 
と挙げる一方で、16世紀のキリスト教布教の例を通じて「愛」という言葉への苦心が述べられている。
当時「愛」という言葉は「愛欲」「愛染」のような暗く断ち切られるべき煩悩を表す仏教用語として定着していたため、ポルトガル人宣教師はAmorという言葉に対して「愛」は使えずやむなく「ごたいせつ」と訳したという。
 
そのころの日本人には、中国で儒教などが用いていた意味での「愛」は、定着していなかった。(中略)孔子がもっとも重んじる「仁」という徳目は、どういうことか、という弟子の問いに、孔子は「人を愛す」ることだとこたえている。(中略)「愛」というのは、もともとはっきりと対象をみさだめて、その存在をたいせつにし、いとおしむことである。目のまえに存在しない対象への渇望感とは、かなりちがう。いま、ここに、存在している対象の、美点も欠点もわきまえて、それでもなおその対象をたいせつにする行為だろう。「愛」には、対象の美化でなく、対象への判断がなくてはならない。「神の愛」を「デウスのごたいせつ」と訳した宣教師たちの語感は、たしかなものだったというべきだ。
 
 
まあ長々と引用して何が言いたかったかというと、「漢字と意味って元々引き剥がせる別のものだったんだなぁ…!」というものすごい驚きを今更になって持ったんだということです。
まとまってなくて え、結局何が言いたいのお前、と思われそうな気もしますが、この文を読んで、「なるほど、漢"和"辞典だものなぁ…!」と新鮮に、それこそ目から鱗が落ちるような思いをしたわけです。漢字辞典じゃないわけです。だって、英和辞典とは言うけど、アルファベット辞典って言わないもんなぁ(それぞれあるはあるだろうけど)。*3
漢字には、それに充当すると思われる日本語を、充てることができる。それはおそらく、別の言語間であっても。ここからがようやく、はてブロジャニーズグループに寄せた話です。
 
以前に「ジャニヲタ英語部」に参加させていただいたときにぶち当たったのが、「担当」という言葉をどう英語に直すかということでした。
素直に和英辞典を引いて出てくるのは「charge」でした。チャージ。私のチャージは真田佑馬です!!!なんていうか!そら英語での語感を知らないからなんとも言い切れないけど!でもなんていうか情緒が!ない!そらエナジーチャージはできるかもしらんが!なんかチャージ料とられそう!!!
逆に英和でchargeを引くと、まずは「(対価、料金などを)請求する」とありました。I charge Sanada. 大丈夫?真田よこせやみたいにならない?いやよこせやって思ってるけど。まあたぶんこれだと「(人に)請求する」って使い方で、実際アイドルという相手に夢を見たり押し付けたりということで、請求するっつっても間違いじゃないのかもしらんけども…。
 
まあとりあえず、chargeではうまいこと自分の気持ちが乗らないなと思ったわけです。
これは何も別言語間の移行に限りません。オタクそれぞれが「担当」という言葉に対して浮かべる概念が違うから、こんなにも世の中に「担当とは」みたいなブログが溢れかえるし、いわゆる「担降り」ブログというものも日々切々と流れていくんでしょう。
 
結局個人的には、my earnest talentというものを充てました。私個人にしかないこだわりが彼に対してはある、というのを主張したかったのでmyを入れたかったのと、「切実な」という語を引いて出てきたearnest(本当はその後ろにはhopeとかexpectationとかの感情を表すような言葉を入れるものらしいけども)を、それから、私が真田の何が好きって、演技の才能(とは呼ぶべきなのか)、および、「それをつきつめたい、そのためにやれる限りのことをしたい」って、がむしゃらに一心になれることで、それが真田の才能だと思っているわけです。それで最後にtalentを持ってきました。
さっきも言ったとおり、英語での正しい語感なんて知らずに言ってるから実際のところどう響くか分かんないんだけど。気持ちが乗っている、というところだけひとまずはあればいいです。私がいちばん切実に気持ちを動かす相手、その才能のかたまり。
 
 
 
また、一人一人の世界のとらえかたの違いによっても、言葉は違ってあらわれます。「ゆび」と言ったとき、すらりとして細い指を思いうかべるか、とごつごつ力強い指を思うか、人によって違います。
なるほど、毎日の生活の中では、私たちは言葉のおおよそ共通している部分で、すませています。そうでなければ、くらしていけませんから。ごつごつしていても、すらりとしていても、手の先にあるあれ(文中傍点)は「ゆび」ということで、すませます。
けれど、日常の言葉では表現できない体験や思いを何とか言葉にしようとしたとき、私たちは真に新しい言葉を求めます。それは、たった一言である場合もあります。また、何千・何万という言葉をつらねた、長い文章になることもあります。
つまり、日々のくらしの中では、言葉はおおむね伝達の道具でしかありません。けれど、未知の体験や感覚や思想をあらわそうとしたとき、言葉はただの伝達の道具でなくなります。だいたい共通していることを伝達するだけでは、すまなくなっているからです。ごつごつしていても、すらりとしていても「ゆび」ですが、ある人のある指に心を動かされるという体験をしたとき、その指そのものを言葉にしようとしたら、ありきたりの言葉を失うでしょう。
日常の、単なる伝達の言葉を失ったとき、表現の言葉、詩が生まれ出てきます。そして言葉のほんとうの姿、そのほんとうの価値は、こちらにあるのです。なぜなら、言葉は、電話器にくっついている電話番号ではないからです。現実の世界をどう区切り、どのようにとらえるか、という人間の問いかけが、言葉の中にはふくまれているからです。*4
 
 
 
明治期などには、意味の合いそうな漢字に振り仮名をつけるやり方で、日本語を表記することも多く書き言葉に持ち込まれたと言う*5
 
 
もしオタク諸氏であれば、「担当」という漢字に何という振り仮名をつけるだろうか。あるいは、どう別言語に移すだろうか。きっと様々な答えがあると思う。
なんたって言葉には恣意性がある。
 
恣。
訓読みは、「ほしいまま」である。*6
 
 
 
 
 

*1:安藤信広 1989年、三省堂

*2:漢字の使用範囲が広すぎても狭すぎても文章が読みにくくなるので、「みんなだいたい一般的にはこれくらいを使おうねぇー」というのが"常用漢字"である。例えば「愛おしい(いと-おしい)」とか「愛でる(め-でる)」というようなのは訓読みではあるけれども、常用で決められた範囲からは外れる"表外"の用法にあたる(ついでに言うともちろん名詞ではない)。もちろん、それくらい読めるという人もいるだろうけど、あくまで常用かどうか、というのは人がつくった目安としてのルールなので、言い出しても詮ないというか、そういうのを議論するのはまた別の場所である。他にも例えば、小3で習うことになっている「悪」を「アク」「わる-い」と読むのは常用、「にく-む」と読むのは表外。

*3:漢字なら説文解字とか康煕字典とかね

*4:安藤信広『漢詩入門 はじめのはじめ』1989年、東京美術

*5:「「混淆(ごたまぜ)」や「動揺る(ゆすぶ-る)」のように、当該語と語義の重なり合いがありそうな漢語を書く漢字によって表意的に書き、それに振仮名を施すというやり方である。」今野真二『百年前の日本語ー書きことばが揺れた時代』2012、岩波書店。念のためだけども、「混淆(コンコウ)」「動揺(ドウヨウ)」が音読み。

*6:「たとえば、「動物のイヌ」の概念をi-n-uという音列で表現する必然性はない。もし仮に両者の結合が必然であるなら、いかなる言語も同じ方法で音列と意味が結合していなければならない。つまり、「動物のイヌ」は英語でも中国語でもi-n-uという音列になっているはずである。しかし、実際は異なる。」斎藤純男、田口善久、西村義樹編『明解言語学辞典』2015、三省堂。要は、お互いに伝達しあわないといけないからある程度はかたまってるけど、指示対象・概念と音なり文字なりとの間の結びつきに本来必然性はないということ。