己のマイクで愛しい「ゆび」さえ照射せよ--『漢詩入門 はじめのはじめ』に引く「ことば」覚書
ヒプノシスマイク興隆してますね。かくいう私は去年の11月にぼんやりシンジュクのオンナになったと思ったら今年のGWを潔くバトルアンセムに溶かされかつ今もシブジュクの争いに思いきり精神干渉され続けているわけですが。そうやって沼に入り込む度に揺さぶられてしまうのがとかく「言葉の面白さ」です。
言葉は「特定化を許容するだけの融通性を内蔵している」といいます。
例えば三角形、と言えば四角形や丸や星といった他の形とは違う、これは三角形というものなのだ、との区別ができる一方で、その言葉は「正三角形でも二等辺でもなく、また不等辺でもなく、同時にこれらすべてでもあり、かつそのいずれでもないようなもの」すべてを一度に内包しています。*1
融通性、というのが大事です。何もかもを別々の言葉で完全に区別して指そう!私の持っているペンとあなたの持っているペンを区別して示すための言葉は10001字めが違います!とかなったらもう気が狂うわけで、ペン、という言葉さえあれば持ち主とか色とか太さとかにある程度幅があるものが一度に示せます(一方ではもちろん鉛筆や筆といった他の筆記具なりなんなりとを分けて特定する機能も備えたままである)(あるいはその特定性を前提として繋がりをずらす、時に逸脱するのが比喩とも言える。ペンは剣よりヒプノシスマイク。)。
言葉がそういうグラデーションの世界で成り立っているがために、人には創造/想像の余地があるわけです。独歩も「本当の世界は想像よりもはるかに小さい」て言うてます。ここで「想像できる世界は現実よりもはるかに大きい」とは言わない辺りが独歩なのでしょうが。乱数が言う通りだよ、ドーナツを見なよ独歩ぉ…焼きジャケ見えるんだから見えるって…。*2
で。例えばバトルアンセム銃兎の
48時間勾留(ヨンパチ)喰らうか?臭い飯食うか?
鉛玉喰らうか?とばっちり食うか?
という畳み掛けなんかはまさに「食う」という言葉の多義性=グラデーションが詰め込まれた部分であって。
試しにコトバンクで「食う」を引いてみると、意味として17こもの説明が挙げられています。まぁこの場合はほぼ11の「望ましくない行為を受ける」に当たるんでしょうが。
あと典型的な字義でありそうな「臭い飯食う」にしてもただそれだけではなく、このまとまり自体が刑務所行きを示す慣用句として既に機能している。そもそも48時間というのは逮捕直後の警察の取り調べ上限のことなので、歌詞の中では「捕」という漢字一文字さえ使わずにその表現をこなしていると。面白すぎるでしょうがよこんなん(「勾留」については警察から検察庁に送られた後の話というのがおそらく正確なところではありますが)。
他にも、一郎の放つ「Rest In Peace」は本来「安らかに眠れ」という弔いの言葉であるところ、敵に発しているという文脈ひとつでテメェ死んどけや殺すぞという皮肉に変わるわけです。グラデーション行き過ぎてドス黒くなってますけど。
そこに加えて、韻以上の音の遊び(ジゴロの意味を保ちつつ数字の語呂合わせを重ねかつ名前と連ねてきちんとカウントアップする「一二三GIGOLO一つづつを積み重ねる」とかマジでヤバい天才すぎる)*3、表意文字である漢字を取り込んで使う日本語ならではの振り仮名による遊び(幻太郎の「謬錯(バグ)」。語謬の方がよく聞く気がするけどそちらではなくどちらも誤りという意味の漢字をわざわざ重ねた上で読みはバグというのはそれは、果たして自然発生か人為的か故意か過失か?とか考え込みはじめて沼にはまる)*4などなど楽しいことこの上ない。この上!なくて!!!めっちゃ楽しいんですよ!!!!!
という導入は盛り上がりつつともかくとして。
漢詩ということであればなおさら韻の話じゃねぇのかよというところですが*5、安藤信広『漢詩入門 はじめのはじめ』(東京美術)の随所がものすごい好きなので覚え書きをというのがここの本題です。特にp.101の文はこれまでにもツイッターであれブログであれ何度も引いてきたものなのですが、詩、リリックを生み出すこと、引いては人が言葉を尽くそうとすることの根源ともいえる憧憬だと思います。まずはそこから始めて、各所手元に控えておきます。
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p.4
詩というのは、絵筆も絵の具もいらない、
李白 贈汪倫李白乗舟将欲行忽聞岸上踏歌声桃花潭水深千尺不及汪倫送我情李白舟に乗りて将に行かんと欲す忽ち聞く岸上踏歌の声桃花潭の水深さ千尺及ばす汪倫の我を送るの情に
李白 望天門山天門中断楚江開碧水東流至北廻両岸青山相対出孤帆一片日辺来天門中断して楚江開き碧水東に流れ北に至って廻る両岸の青山相対して出で孤帆一片日辺より来る
<スキーマ>とは、高度に抽象的な心的イメージのことである/哲学者ロックが<典型的な三角形>のイメージとは「正三角形でも二等辺でもなく、また不等辺でもなく、同時にこれらすべてでもあり、かつそのいずれでもないようなもの」であると述べた/特定化を許容するだけの融通性を内蔵している
*2:ただ後で気付いたんですが、これはそう単純にネガティブの一端として発せられたものというわけではなく、確かに現実を見据えて立った末での言葉と捉えることもできるのかなぁなどともとも思いました。というのは、ペシミストというのはまだ起こっていないことを悪い方悪い方に考えてしまってそれゆえに、「可能性に対して」こわいという気持ちを持って止まってしまうわけであって。だけどそういうのって、いざやってみたらなんてことはなかった、「思ったほどはなかった」で済むことってよくあると思うんですよね。私たちもたぶん大なり小なり実感したことはある。そう考えると、「本当の世界は想像よりもはるかに小さい」、それは、そうだ、勝手に考えてるような場所よりほんとうはあっけなくて、ちんけで、全然立ち向かえるような場所なんだ。ほんとうは恐れるに足らないんだよって。そういう風に言った言葉かもしれないよなぁって、思ったりします。
*3:「づつ」は原文ママです。本来は「ずつ」でしょうが同じ曲で「ヒックリ 変えす」という表記が使われているのでどこまでが意図的なズレかは分かりません。ただし×GIGORO ○GIGOLOは誤字でしょうね名前だからね…!名前は間違えちゃいかん。 まぁ本来とか言ったところで四つ仮名の話とかちゃんと勉強してないし難しいのでなんとも言えません
*4:表意文字ならではというところではこれが面白かった 海外にもキラキラネームはありますか。漢字のない国ではどうキラキラさせるのでしょうか | ことばの疑問 | ことば研究館 https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-37/
*5:日本語ラップの韻分析については、この号掲載の文が面白かったです 雑誌『日本語学』 2017年10月号 - 明治書院 http://www.meijishoin.co.jp/book/b307862.html
*6:とは書かれていますが自動詞と他動詞という区別は英語に特有なのではなくて日本語にもあります