一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

うちのサナ知りませんか(「担当」という言葉の指示対象の話)

私自身は比較的「うちの自担」というフレーズを使ってしまうのだけど、それは重複表現?という呟きだとか、いわゆる「担タレ(担当の性格はタレントの性格に通ずる、似てくる)」と言ったときに「担当というのもタレント本人のことであれっ?(混乱)」みたいな呟きを見かけたのでそもそもを考えてみた。

 

1.指示対象が2つという話

そもそも「担当」という言葉が今のとこ2つの指示対象を持っているのが混乱の元であって。①担当「先」に相当する人物と、②その誰かを応援すると決めた側の人物と。

というように並べたものの、元来の言葉において先に立つのは実は②なんだと思う。

 

2.応援する側が元来先立っているんだろうという話

今辞書がないので明言はできないんだけど、「担当する」というのは他動詞のはず。

(他動詞というのは目的語、日本語でいうと「~を」の部分に当たる言葉をとる動詞のことです。例えば似たように見える言葉でも、「子どもを『育てる』」は他動詞で、「子どもが『育つ』」は自動詞として区別します。)

となると、「『私が』真田を担当する」と言って②の内容を示すことはできるけれど①の内容を示すことはできないし、「『真田が』担当する」と言うと意味が違ってくる。というのが②が先立つんではないかという理由です。

 

また、高校英語で文型を習った覚えのある方がいるかもしれません。英語ではS(主語)V(動詞)O(目的語)、日本語ではSOVの語順であり、この3つを組み合わせると全部で6通りの順番があることになりますが、目的語が主語に先立つ言語はごくわずかだと言われています。

そのことを考えても、「担当する」に対してまず優位に立つのはあくまで主語である「私」なんではないかと考えることになります。

 

3.応援「先」へ広がる話 

では①はどこから出てくるのか。

言語には「換喩」という現象があります。指示対象を示すのに、それに近接したもの、縁があるものの名前を使うというもので、よく出されるのが「赤ずきん」の例です。「赤ずきん」と言った場合に一般的に指示対象となるのは「赤ずきんをかぶった女の子」であって、ずきんそのものではありません(もちろんずきんそのものを示すこともできます)。また「白バイ」と言った際にも、白バイそのものを示すことができると同時に、白バイに乗っている警官を想起することもできます(「白バイに追われる」と言った場合、バイクが意思を持って追ってくるわけではない)。換喩というと難しいことのようですが、実はもはや意識していない程度に身のまわりで使われているものなわけです。

要は近いもの同士に同じ言葉が使われることがあるよ!ってことです。

で、そういった意味で、指示対象が元来の②「担当する『私』」から、①でいう「担当『先』」へ広がっていく流れは考えられます。

 

4.で、結論 

当然、1つの言葉に複数の指示対象があれば、混乱しやすくなります。だから、“後から加わった方の”①について、「自担」という新たな表現が当てられることになるのかなと。

ということは、「自」という文字はついているものの、指示対象はあくまで「担当『先』」の話なので、「うちの自担」とは例えば「うちの真田」という意味になるので、使えないわけではないんではなかろうか(分かりづらい)(別に、別に私のじゃないけどさ…)。

 

 

あれっ私換喩の話持ち出して「あくまで元々相手がいてそれを自分の名前に流用してる」って話にしたかったのに、「担当ってな結局自分ありきかよエゴ丸出しじゃねぇか!」になってしまったぞ…あれ…?しかももし万一担当するって他動詞じゃなかったらどうするんだ私…

まぁいろいろ隙だらけだと思うので、今後の叩き台だと思ってください。