一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

青年の白い真実 /舞台『TABU』解釈の一つの可能性

真田佑馬初主演舞台『TABU』も、残りは福岡・札幌・仙台の3公演を残すのみとなった。

私は幸いにも東京で2公演+アフタートークショーを見ることができ、更に昨日兵庫公演のラストに入ることができた。明日の地元・福岡公演が私的千秋楽だ。

もともと「観客それぞれに答えを探してほしい、公演を重ねるごとにこの舞台そのものがスフィンクスのような大きな怪物に育ってほしい」というようなことを言われていたこともあって、かなりの部分が原作より削ぎ落とされまた再構成された舞台版であってもなお、解釈の難しいところ、割れるところというのは多くある。 それでも昨日、ふいに一本の線のつながるところがあった。もしかしたら明日もう一度見たらまた変わるのかもしれない。できればそうしたい。とは思いつつ、大方一本の筋が通ってしまった内容を固めておきたいと思う。

 

 

一つの結論を言えば、ゼバスティアンの恐怖と断絶の起因とは「男性性の暴力」だ。

原作を先に読んだ身からすると、一番印象が異なるのはゼバスティアンの父だというのが、わりあい知人の中でも共通認識である。舞台版でもアンナ・フェルトが多少述べていたような、気の弱さ、繊細さが先立つ印象だった原作版に対し、舞台でゼバスティアンが思い起こす父の姿は堅固で獰猛性を秘めている。

「(万一それが息子の前の虚勢であれ)ゼバスティアンの中では勇猛な父であった姿のままで固まっているのだろう」というのも行き着いた解釈としては共通なのだし、昨日見てて尚更「エッシュたんファザコンやな…」となった。

というのは、やはり憧れや崇拝が強いものであった程、そこからの落差は大きくなって然るべきだからだ。

「あの」父が、余所の女性を苦境に追いやり、また新たな命として生まれた娘をも苦しませた。自身もまた苦しみ、悲観し、果てには頭を吹き飛ばした。

 

「たいていの自殺者は可能なかぎり、頭を銃で撃つんだ。心臓ではなく、頭。自分に恐怖を覚えるためだ。わたしたちは自分の罪に耐えられない。他人のことは許せる。」(原作p.186)

ビーグラーのセリフにある通り、父親は自分の罪に耐えられず、死んだ。当時11、12歳だったゼバスティアンはその理由は分からなかったのだろう。だが、後のゼバスティアンは叫ぶ。「僕も自分が怖い。」その感覚を思い知ったのは、異母妹マリア・フェルトに会った直後だ。彼女の服は緑色である。この作品において過去を表す。父親の、あの深緑の朝靄の中、気高い大鹿のように強かったあの父親の罪を知った直後だ。

 

性愛とは、穏やかなものでいられるのだろうか。序盤、なんでもない本筋との脈絡があるかないか分からないと思っていたような話の中に、ウナギの例えが出てくる。生まれた海を出て川を遡り二十年の時を過ごし、そうしてまた海へ戻ったウナギたちはほぼ生殖器のみが体を構成しているともいえるほど発達した異様な姿へ変容し、そうして交配をする。こういったウナギの生態に関してビーグラーが「果たして自然がウナギを真っ当に扱ったか。とてもそうは思えない」という言葉を投げつけているが、いったいそれがウナギだけに当てはまるものだと誰が言ったのだろう。とうてい人間にしても、その性愛に向かう本性は真っ当な産物などとは言えないのではないか。

 

被告人陳述で我々が見せられるインスタレーションは、彼の理想なのではないか。自身と絵の間に他者を介在させたくなかったティツィアーノのように、肉体を、性を介在させずに命を生み出せたなら、それはどんなに切実に幸いなことか。白のポーンが溶け女性のシルエットに垂れかかっていくのは性の持つ暴力性の象徴だ。そのシルエットには、狩猟館に父が無数に刻み込んだのと同じように、十字架が無数に描かれている。

それに続いて混ざり合うのが、今や過去を象徴するマリア、自身であるゼバスティアン、そうして愛したいと願うソフィアの顔だ。その混ざった顔は、ポーンの持ち主であったトルコ人形の頭を吹き飛ばす。罪の象徴を吹き飛ばすのだ。

 

観劇中の私は、「あの人に優しくするといい」と言うビーグラーと、男性性を持つ以上それが叶わないと知っているゼバスティアンとの断絶を思ってとても悲しかった。同じ性を持つ人間がそれを苦悩せずに生きておりそれでもまた信頼しうる人間として生きていることとの折り合いのつかなさがひたすら悲しかった。

 

それでも、救いはある。

今改めて、作中引用されるヘルムホルツの色彩論を見返したが、その言葉は「緑と赤と青の光が同等にまざりあうとき、それは白に見える」と述べる。その各色はこの作品においてはそれぞれ過去、暴力、司法を表す。司法は社会において定められたものだが、個人においては理性と置き換えられるものではないだろうか。ゼバスティアンの衣装は、基本的に全編を通して白だ。父によって構成された過去と、父から、あるいは祖父や曾祖父から受け継いだ「男性性」という暴力と、そうして懊悩する理性。あるいは、清廉に人を愛したいと願う気持ちであり、その対象が具現化したソフィアだ。ソフィアの衣装はやはり全編を通して青から変わらない。それらが混ざって、ゼバスティアンをつくりあげている。決して、彼の身は緑と赤のみで成り立ってはいない。

また、これも昨日得たヒントだったのだけれど、法廷でのビーグラーとシュッツの問答の中に「テロリスト自身が口を割らない場合、その娘に拷問をかけるか?」というものがある。答えはノーだ。「娘に罪はない。」ゼバスティアンはきっと、まだそれを混同しているのではないだろうか。敬愛していた父の罪は、自分にも流れているのだと捉われている。そんなことはないんだと言ってあげたい。

 

 

願わくば、ゼバスティアンとソフィアが幸せな家庭を築きますように。ゼバスティアンがぬくもりを知ることができますように。

また願わくば、また明日、新たな解釈でこの可能性をかき消せますように。