一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

ショーという生き物の下 SHOCK初見者のひとまず(前

博多座でやるようになって4年。」
そうは言っていたものの、これまで縁があるとも思っていなかった堂本光一の公演『Endless SHOCK』。自担の相方である野澤さんが今年の帝劇公演より出演者の一員となったことで、この度初めて見に行く機会を得た。

そもそも行くという段階になって初めて、あまりに事前知識がないことに気がついた。知っていることといえば「階段落ち」とライバル役がいること、「夜の海」という曲があることといった程度で、その夜の海にしても野澤さんがオーディションの話をしていたときに話していたので覚えたもの、それから階段落ちにしてもどういう流れで起こるのかまでは知っていない。先日ローカルで放送されていたWSで紹介されたときに座長の顔面を見て「血みどろやで?!!?!」ととっさに反応したほどである。
そういったところで、初回は次に来るものに身構えることもできず、その割に野澤ガン見という所業をやらかして全体像を見逃すところもあったせいなのかは分からないが、わりあい直情的な感想を抱くことになる。それが公演後にツイートをした「ウチとは、バリカンだった」の件だ。
今回のブログではひとまず、①初回の感想と②2回目を見ての整理を、そうして③「Show must go on」という成句についての思うところを書き残しておければと思う。


ここまでを前振りとして、1つめはバリカンとしてのウチの話である。
バリカン、というのは、2010年に潤くんがやった舞台『あゝ、荒野』で小出恵介が演じていたボクサーの役だ。床屋で働いていたことからリングネームがついている。
バリカンにはひどい吃音がありそれを起因とした生きづらさがある。その彼を前にして、途中でこういった言葉が投げ掛けられる。「どもりは直さないほうがいい。きっとそのうっ屈したのが代わりに乗って、お前の拳を強くしてるんだから」と。
そんなわけがないのだ。そんなものがほしいわけではない。そんなことを慰め半分理屈半分で言ってもらうことなんかではなく、もっと普通の精神で、もっと当たり前に無神経にいられる(それは無邪気との表裏である)、言葉を発することができる「皆と同じだけのこと」の方がずっとずっとほしいのに。
当時の私はこのシーンでどうにも怒り混じりに泣いていたらしいのだが、これによく似ていたのが2幕「higher」のくだりだった。


1幕。カンパニーのトップであるコウイチに対して、ウチは常に前を行く兄のような、倒すべき相手のような、羨望混じりの敵意を向けている。コウイチの輝きを知っているからこそ、もがき、追いつきたいと願い、そのために「自分の価値」や「ありかた」を全身で探し続けている。分かるからこそなのだ。ウチの苦しみはそこにある。力が隔たった者には無邪気に受け取れるものでも、敏感な者にはその高みに届かないことへの絶望が共に与えられる。「感じる力」があるがために、ウチは自分を追い込み、上へ上へと手を伸ばそうとする。
それがコウイチ本人により切り捨てられるのだから、ウチの擦りきれた糸は、切れてしまったのだ。コウイチの信条である「Show must go on」を壊すために、殺陣の終盤で自分に向けられる手筈の刀を本物にすり替える。そこで止めざるを得ない、その状況にすることでコウイチに勝てると思ったのだ。だがコウイチはその剣をウチの手に握らせる。動転するウチ。もはや懇願に近い。「無理だよ!無理だって!!!」泣き叫ぶウチに、コウイチは詰め寄る。「続けろ。続けろォォォォ!!!!!!」
果たして、斬りつけられたコウイチは力尽き、件の「階段落ち」のシーンとなるのである。

果たしてコウイチの選択は正しいのか?正直な話、到底疑問である。死人怪我人が出かねない状況であってショーを続けるという選択が果たして正解なのか。以前ツイートでブラック企業を引き合いに出し、「もう疲れたんだよ…!」と絞ったような声を出すウチの方が一般的にも共感対象だろう、というようなものも見たような覚えがある。
それが外側の考えだとして、だがあくまで『SHOCK』という世界の内側ではあまりにもウチの理解者が存在しない。

「ウチは今もショーを続けてるよ。あの舞台で」
事故の後、ウチは後輩4人を傍らに残しインペリアルガーデンシアターに立ち続けている。そうして、そこに投げ掛けられる「やっとトップに立てたって意地はってんじゃねぇの」という無神経な揶揄に対してオーナーがとりもった一言でさえ、「ウチは、コウイチが帰ってくる場所を守ってるんじゃないのか」という台詞である。ウチ本人の主体はどこにあるというのだ。
挙げ句、その公演のラスト、ステージの上に華々しく戻ってきたコウイチのもとに、タツミやマツザキたちがその傍らに控えて踊る中に、それまで自分の傍らにいた後輩たちが駆けていく。笑顔で。無邪気に、コウイチを出迎えて。
棒立ちになったままでその集団を見つめるウチがつらくて、つらくてその場面で泣いた。そうして思ったのだ。
「ウチは、バリカンだ」と。

私の記憶なり感想の中では、バリカンは新次(潤くん)という天使の導きで、ほんの数瞬であれ「生きた人間」になり死んだ。それはすなわち、バリカンは救われたというエンディングの解釈である。
その一方でウチはどうなのだ。これは自分の処理能力の問題で、最後の一連のショーが「コウイチが消えゆくまでの力限りの最後のショー」だという流れが初回では分からなくてというのもあるが、「えっちょっと待ってなにウチこれでいいの?」という感覚が拭えなかった。えっなんかコウイチみんなのおかげで走ってこれたよ!とかいい風なことを言ってるけどそれでいいの?!それであなたの生きづらさってもう昇華されてるの?!!?!ともうとにかく腑に落ちず、わりとひたすらコウイチに腹をかいていた*1

なんというか、まだまとまった意見ではないのだけれど、コウイチが「アクター」なのか「プロデューサー」なのか、その境が曖昧なのが原因ではないのかなどとも考えた。プロデューサーなり演出を考えるのであれば全体への指示も通るだろうが、アクターであればその位置は他の演者と同等であって然るべきではないだろうか。コウイチが旗揚げをしたカンパニーであればともかく、そういうことでもない。ブロードウェイの考え方がどういうものか分かっていないのでなんとも言い切れないが。


そういった感じで、「とにかくウチに肩入れするSHOCK」。これが私の初見の感想である。

*1:こちらの方言。いらいらする、ふてくされる、というような意味。この場合ぷんすこしていたとか激おこでもいいのかもしれない