一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

ショーという生き物の下 SHOCK初見者のひとまず(後

SHOCKももう15周年だしEndlessの冠がついてからももうしばらくやっていると思うので、先輩諸氏におかれてはもう通りすぎた一般的な解釈かもしれないけど、ひとまず自分の言葉でもまとめさせておいてほしい。
ということで続けて、②2回目を見ての整理である。

おそらく初見でよく分からなくなった引き金は、オンに進出するかどうかという話でウチに「周りが見えなくなったら終わりだぞ」と言ったコウイチがその場でオーナーから同じ台詞を言われる、あそこだったのではないかと思う。要は初見だから(初見のせいにしすぎ)ぱっと誰の台詞かも聞き取る用意がなかったし、なんかおんなじ台詞続いてるし…?と整理がしきれなかったのである。
が、2回目を見ておぼろげながらに解釈ができてきた。コウイチに焦がれ自分を傷つけながら追い込むウチと同様に、コウイチはコウイチで不完全だったのだ。だからこそ大人であるオーナーに言葉を受ける。「周りが見えなくなったら終わりだ」と。「時には休むことも必要だ」と言葉をかけるオーナーに対して、「立ち止まれって言うんですか!!」と喉の奥からひきつらせるように叫ぶ。彼は彼で、周囲のテンポと合わせることを学ぶべきだったのだ。

まぁここでは「それはそれで必要だけどやっぱコウイチすごいよね」的な収まりで、最後のウチとの「和解」、そうしてラストショーへと向かうことになる。あ、コウイチも不完全なんだな、と思えたことで、1日を経て私の気持ちはだいぶマイルドになった。


そういった流れを踏まえて。
最後に成句「Show must go on」への疑問である。
初回1幕のわりと序盤だったと思うのだが、この成句が「ショーを続けなければならない」というように訳されていることがふと疑問になった。goはこの場合showを主語とした自動詞のはずである。「人『が』ショー『を』続ける」のだとする日本語の訳とはズレが生じている。
同じことだと感じる方ももちろんいると思うのだが、私が好みとする認知言語学では、文法の枠組が違うのであればそれは意味も異なるものを示すという解釈を行なう。浅学なので乱暴な説明になることを許してほしいが、ざっくり言えば「AがBを殺した」と「BがAに殺された」は、起こった事態は同じでも意味が違う。「殺す」と「死ぬ」、「死なれる」と「死なせる」も全て、そこに含まれる意味は違うのだ。

翻って。もちろん、ここでいうショーが出演者もなしに動くことはないのでそりゃあショーを続ける『人』が必要なのは当然のことでしょう別にその訳でいいじゃんという解釈のありようもわかるのだが、あくまで「Show must go on」という形にこだわって考えてみたい。「ショーを続けなければならない」ではない。「ショーは続かなければならない」のだ。

そのとき咄嗟に浮かんだのは車とガソリンだった。もしかすれば、彼らは燃料なのだ。薪がなければ火が盛らないように、ガソリンがなければ車が動かないように、彼らはショーという存在のために燃やされ駆動される一片なのかもしれない。ウチだけではない。コウイチでさえもが、そう。だから初見ラスト、とうとう倒れたコウイチを掲げていくシーンでは、「生け贄やん…」という思いも生まれた。ウチにしろそうだ。苦しいのであれば逃げ去ってしまえばいい、それでもステージに向かうのは、ショーに魅入られているからだ。
ショーという輝かしく甘美な魔物にとりつかれている。ステージの上で生きる以外の選択肢は彼の中にはないのだ。そう考えると、「ショーは生き物だぞ」ーーその言葉は笑い事ではなくなるのかもしれない。


もちろん、そうは言ってもこちらだって単なる物言わぬ燃料、捕食対象ではなく、動き続ける人間であることに変わりはない。話が全くもってループしているようだが、「『人が』ショーをやってやるのだ」と、突きつける勝利の瞬間を目指している。
SHOCKとは最終的には、その内側の世界でウチやコウイチがもがく姿を「描いて」終わりなのではなく、全てのアクターがショーという魔物に挑むものーー自分のものにしようと限界に抗うものという大箱の構造を持っている作品なのだろう。


魔物を引き連れた野澤が、真田の元に帰ってくることを願って。