一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

キイロとピンクとグレー

おととい、読みさしだった小説版『ピンクとグレー』を読み直し、それから昨日映画版『ピンクとグレー』を観に行ってきた。例の“62分後”から後については多くの方がそれぞれに感想を書かれているのでそちらに任せるとして、この場ではひとまず62分描かれた劇中劇『ピンクとグレー』に焦点を当てて感じたことを書いてみたいと思う。


「ごっちが特別」だったことが描かれていた小説版に対して、映画版は「りばちゃんが凡人」ということに視点が注がれていたように思う。凡人というのも違う。映画版のりばちゃんは明確に、「クズ」と言って差し支えのない人間だと思う。
なんといっても菅田りばがサリーを襲うところ。あれはない…。あの1シーンひとつで、りばちゃんの人間性の根底がクズのまま固定されてしまった。

というのはまぁ憤り*1として置いておいて。
そうして「ごっちが純度が高い人間で、だからこそ自分との解離に焦ったり一方で守りたいような存在として書かれていた」小説版と比べて「姉を自ら抱えていた面なりカリスマ性はあるにせよ、そういったごっちに対して、あるいは世間一般に対して、大きな口ばかりでプライドも劣等感も大きくて」っていう映画版のりばちゃんを見ながら私が思い出したのは嵐がかつて主演した『黄色い涙』だった。


黄色い涙』は本当に大好きで、公開当時東京にいた私はグローブ座で3回、それから11年に恵比寿ガーデンプレイスで再度上映された際に1回と劇場で見たのだけれど、なんというのか、劇中客席が笑うタイミングというのが同じだな、と感じたのだ。要は、「痛々しいほどに世間から置いていかれている瞬間」を、世間は笑う。

私は栄介さん(ニノ。漫画家としてきちんと労働している)の部屋にダメ人間3人(章一くん/相葉ちゃん。歌手志望、圭くん/大野さん。画家志望、向井竜三/翔さん。小説家志望)がたむろして、っていう酒盛りの場面で*2、酔っぱらった章一くんが泣きながら「やるよ…?ちゃんとやるよう…」っていうところで笑いが起きるのが本当に解せなかった。それは私も努力ができない人間の側だからなのかもしれないけど、突き抜けた努力ができないことを笑われるっていうのが嫌で、言うたらあれだけど、えっみんなそんなSHOCKコウイチの側にいるの?章一くんはそんな笑われる側なの?みたいな。あとね!あとほんと終盤の章一くんがのど自慢に出ててカーン!って鐘が鳴るところで笑いが起きるのもほんと解せないの!あそこ泣くところじゃないの?!!?!ねぇ?!!?!



という個人的感覚はともあれ。それと同じことが出てきたのが、売れてきたゆとごっちと菅田りばが初めて絡みのシーンをできることになり(原作ではそれはごっちの意図や配慮で用意されたものだと明言されている)、現場でりばちゃんがごっちにいつもの調子で挨拶をしようとするも無視され、「おはようございまーす…」と小さく呟いたところだ。確かに劇場は笑っていた。
大人の、社会人としての対応を問えば、確かにりばちゃんの気楽すぎる呼び掛けは場に沿うものではなかったろうが、そこからの撮影シーンはどんどんどんどん、ごっちとりばちゃんの距離を明確にしていく。
端正な裕翔くんの顔も相俟って、そこに「白木蓮吾」として現場を背負い立つ姿の正しさは、力は圧倒的で、自分の力のなさを、小ささを痛感したりばちゃんの目には、堪えきれない涙がたまってゆく。台詞も喉につっかえる。言えない。ここの泣きの演技がアドリブだと知ってものすごく驚いたのだけど(本当に、全編通して菅田将暉の演技はものすごい技量だった)、前述のサリー事件も一旦置いて、これはあんまりにもりばちゃんの、「自分の存在価値の喪失」とまで言える悲しみや悲痛さに同情的になった。
そこから挟まれる再びクズのターン(サリーんちに行ってまた襲いかけたり、数年経って養われてるような辺り)はもう言い募るのもあれだから再度置いとくとして、(劇中劇の)最後、首を吊った白木蓮吾の、ごっちの足元に縋りつくシーンは圧巻だった。その膝下、立派な靴を履いたままの足元を閉じ、二本の足を手にその間に縋る様は、その足を使ってりばちゃんもまた首を吊っているようにも見えた。だから、映画版『ピンクとグレー』、その“ピンク”の間の出来事は、りばちゃんをあまりにクズとして描いたことはともかくとして、終わり方としてはよくできていたのだと思うのだ。




監督が「映画にするにあたっては、男と女じゃ越えられないような、つき合っていた女たちですら嫉妬するような2人の関係を描くか、あるいはそこにもたどりつかない少年の解り合えなかった想い、死を分かっている人間と分かっていない人間の話にするか、どちらか。で、後者だったんだよね。」と語っている以上*3、そこから更に本来のりばちゃん=中島裕翔を更に本来のごっち=柳楽優弥から突き放す必要があった。死んだごっちを姉と絡めることで更に異質な存在に高め、りばちゃんは世俗のできごとと絡めることで自身の卑俗さを種々露にさせた。


これは紛れもなく、りばちゃん=中島裕翔主演の物語であり、これはあくまで加藤シゲアキの『ピンクとグレー』を原案とする二次創作だ。こういった意見は他にも散見されるものと思う。


ただ、あの劇中劇を1本の作品として膨らませたとき、そこに見えるのはやるせない黄色なのではないかと、私は思っているのだ。*4



*1:小説が改変されていることに対してではなくて、男が急に女を襲う描写が差し込まれることなり、その後も女側がわだかまりなさそうに描写されていることなりに対して

*2:潤くんは本当に全うに働いているお米屋の祐二くんです。ほんとに、ほんとにかわいかった…
ノノ*`∀´ルしょういっつぁん、またしょういっつぁんの曲、聞かせてけらや。オラ、章一めろでーのファンですから
おにぎりつくってきちゃう祐二くん…生活に困ってるみんなにお米あげちゃう祐二くん…しかし最終的に、章一さんと付き合ってた時江ちゃん(香椎由宇)と結婚して農家やってるラストシーン。すごい。

*3:劇場パンフレット

*4:あとは、小説ほどさほど「渋谷っぽさ」を感じなかったのも、『黄色い涙』を想起した一因かもしれない。幼少期の団地が横浜から埼玉になっていたこと、どうも中学受験をしたような描写がなく高校生活が非常にふつうの公立高のそれのように見受けられたこと、2人のルームシェア先、あるいはサリーと住む場所の沿線の描写。どれもが比較的「郊外」を思わせるもので、だからこそ小説のりばちゃん以上に「同じところにいたのに」という感覚がそもそも映画版では失われていたように思う。