一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

数と文字とにまつわる寓話

やぁー良かったなぁーと笑いかけて目を細めると、瞳に光が差してその黒々とした色が尚更印象を強める。少し首を傾げると同じように艶を持った黒い髪が揺れた。僕たちの中で一番年嵩であるにも関わらず、少年のように無垢な仕草を挟ませる。彼はこの人のこういうところを、好いて止まないなのかもしれない。神様、という義符は伊達ではないのだろう。実際そのくらいには、彼はこの人に惚れている。とうに同世代の役者の中、舞台上では居並ぶものはいないと言ってもいいほどの立ち振る舞いを見せるのに、彼は褒める言葉をかけられると、まるではしゃいだ子どものように顔を赤らめて破顔した。
あとはどうかなぁ。お互いに動物の名前を持ってるから、なんか似通うところがあるのかなぁ。隣に座るてかてかした彼の顔と、斜向かいの整った顔を眺めながら微笑ましく思った。

よかったなと、ヒツジくんは零すのだ。
ヒツジくんは、今日の興行の感想を立て板に水と言った調子でとめどなく述べてくれていた。どこに記録装置を隠しているのだろうと疑うくらいに、細かな場面、子細な表情の変化一つひとつを挙げて、その文体で表していく。僕自身は直の繋がりがあるわけではなかったが、まるで孫弟子のような扱いでそのおこぼれに預かった。うれしい。この人の言葉には嘘がない。僕は彼曰く「サっちゃんは自分に厳しいから」というような質なのだけど(だってまだまだ実力不足なのは本当だ。学びたいことも山のようにある)(だから、今が楽しくて仕方がない)、褒められることは素直にすんなり、うれしいのだ。僕を見て隣の彼が「サっちゃん子どもみたいだねぇ」と笑う。どの口が、と拗ねるとこぞって尚のこと笑われた。それでも、うれしい。


実際のところ、僕にしても今日の興行は成功だったと思っているのだ。旗揚げ公演だった。ずっと慕っていた彼と、それから兄と、友人と。余所からの助力をもらわなければまだままならない部分もあるのがもどかしかったが、全力を尽くした舞台だったと思っていた。ヒツジくんの隣、要するに僕の向かいでは今度は兄が、ヒツジくんからの話を受けていた。二人はほぼ初対面のはずなのだけど、兄は何にしても卒がない人間だし人好きのする質だ。にぎやかに進む流れの中で、ヒツジくんが勢いか間違えて発した劇団名も、何てことのないように訂正の言葉をかけた。最後のそれいらないですって、俺たち一つですもん。ヒツジくんも、あぁそうだっけ悪いなぁユズ、と眉を下げて笑う。顔の前に立てる片手のその指もきれいで一挙にも愛嬌があるようで、この人にせよ大概人好きのする人なのだと思った。それにしてもこの間会ったときも言い間違えてたなぁ。時々あるよね。いっつもあれどっちだったっけって迷って、結局間違っちゃうやつ。博の点がいるかいらないかとか。
ヒツジくんは本にも音楽にも詳しい。今日の話が落ち着いてきたところで、話題は最近の心情に残った文句へと移っていた。久々に読み返した本でね。たとえお話の世界だってルールがなくちゃならない、部分部分が首尾一貫していて、ぴったり整合しなくちゃいけない。そういうことが書いてあったんだ。それって俺たちが肝に銘じておかなきゃいけないことだよなぁ。確かにそうだと頷く。夢を語る仕事ではあるけど、あまりにご都合主義でも、逆に何かを度外視してあまりに誰かにばかり犠牲を強いていても、それはダメだよね。歪な取り決めはいつか破綻する。世界はぴったりと合うようにできてなきゃいけない。ピースをはめこむことで、もっと広い場所が開けていくみたいに、さ、そういう風に生きられたらいいよね。

そんな、思ったままに口をついた言葉に任せて、それから一息をおくと、視線が集まる。輝くような、にやつくようなその。焦って口元をわななかせた。ちょっと我に返ると一気に恥ずかしい。サっちゃんいいこと言うー!かっこいいー!と年少の僕を冷やかすように(あるいは彼の場合本気で)(兄の場合は冷やかしだ)囃す。調子に乗って擽る手を隣から伸ばしてきたので、体をよじりながらはたき落とした。それでも追ってくるから腰の辺りがこそばゆい。涙が出そうだ。もう一度払ってから体勢を整えようと、目元を軽くこすって、それからソファに手をついたときにヒツジくんの笑う顔が見えた。

「それで」

その、黒々とした瞳。

「それでお前は、いつあいつのところに帰るんだって?」



一瞬何のことだか、分からなくて、その人称が誰のことを指すのか、なぜこの人は途端にこんなに穏やかに笑ったまま話をするのか分からなくて、ーー分かった瞬間に体温が引いた。
この人の言葉には、嘘が、ない。この人のこの言葉は、本心なのだ。間違いだと思っていた、言葉さえ。

「…あの、何のことですか」
「だから、お前がいつ帰るかっていう話だ」
「帰るとか帰らないとか、そういうの、…だってそもそも、あそこが俺の家だって、そういうわけじゃ」
「そういうわけだろ?俺はずっとそう思ってたしそう思ってるよ。お前たちは有徴だ、双数としてくくるに能う人間だって」
「いやけど!」
彼とヒツジくんが交わし始めた。
隣で、目の前で流れていく会話。上滑りしていくような気配さえしている。
「ちょっと、ちょっと待ってくださいって。さっき僕らのことたくさん褒めてくれたばっかりじゃないですかぁ」
「ベターだって褒めない道理はないさ。俺は今マストの話をしているんだ。このままじゃ無徴のSだ。ばらばらと順当に数えられる、お前はそうじゃない」
慌てて取り繕う風に会話に入った兄貴にも、ヒツジくんは笑ったままだ。整った顔。目尻の笑いじわと、目立つ涙袋のラインが繋がる。美しい顔。そうして言葉が続く。
「お前たちの有徴の文字は、俺たちとも似通ってて好きだったんだ。最も、俺たちの場合は4と1を繋ぐ文字だったし、始まりを表す文字だった。お前たちの場合はまさに双数を示すんだって、未だに思っているよ。対を成して機能するもの、翻って一つのまとまりとしての意味を持つと認識されるもの。お前たちはそうだっただろ?」
「違う、そんな大層なものじゃない、俺たちは、…だって、そうでなきゃ!」
「同じ名前まで持ってよく言うよタスク」


その言葉が決定的だ、と思った。二人を眺めるしかないまま浮かべる。二人。目の前のタスクくんとヒツジくん。タスクくんと、彼の隣にいた、同じ名前を持った、もうひとりの。
「できた話だ。義符が違うだけの同じ名前。人間って義符が当てられてるのもお前らしいなぁって、俺はお前たちのそういうところも買ってたんだよ」
本当に、人間くさいやつだって。本当にかわいいやつだよ。だからこそ、お前にはいるべき場所があるって、許してやりたいんだ。
神様の義符を持つ人が言う。許す、という言葉。
タスクくんは普段からの水の量の多い目を揺らがせて、茫然としたように前を見ている。出したい言葉があるのに、喉につっかえて話せないように。

「なぁサトル。お前からもはなしてやってくれないか。こいつが元いた、いるべき場所に行けるように」
ヒツジくんが笑う。
お前もさっき言ってくれたろ?歪な取り決めはいつか破綻するんだって。世界はぴったり合うようにできてなきゃいけないって。

思い出す。
もうひとりに当てられた義符。
それもまた、この人と同じく神様なのだということを、僕は分かってしまっていた。







*義符…(広義)会意文字及び形声文字として成り立つ漢字を作るパーツのこと。 (狭義)形声文字において音を表す音符に対して、意味を担うパーツのこと。おおよそ偏に相当する。
*無徴…言語において一般的な形を表出すること。 例)英.三人称単数現在/複数のS 
*有徴…言語において特定の条件下で特殊な形を表出すること。特別。 例)英.三人称単数現在/複数でESがつく場合 例)古い時期の印欧語族などにおける双数。単数、複数に対し、二つのものが対をなして機能し、従って一つのまとまりとしての意味を有することを際立たせる際に使用された