一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

ユリイカ アイドルアニメ特集号を読み終えて

 

[青土社ユリイカ2016年9月臨時増刊号 総特集=アイドルアニメ] http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=2963

を読み終わって、はぁ~となったところか未だ噛み砕けていないか分かった風になってるか納得いかないかはともかく、ふせんを貼ったところのひとまず書き出しです。
いやなんでかって、のちのちちゃんと考えるためっていうのもあるけど、時間が立つと「なぜこのページにふせんを貼ったか?」を忘れてしまうからです…。(シン・ゴジラの号でやらかした)

ちょっとでも引っ掛かる文がある方は、二次元通ってなくてもとりあえず読んでみられると楽しいかも。
ということで。

 

 


シュワルツローズ側ははっきり言って、いわゆる「アイドル」なんです。多少スタァ本人に負荷をかけてでも、ファンの求めているものはなにかを追求する。
(p.9 菱田/『KING OF PRISM by PrettyRhythm』という奇跡 プリズムスタァのきらめきを追いかけて ...菱田正和×西浩子×依田健...司会・構成=上田麻由子)


いまのアイドルを描くなら、そっちのほうがリアルじゃないですか。キラキラしているところより、そうじゃないところばかり目立っているような気がして…。でも、みんな本当はもっとちゃんとしたアイドルを求めているんじゃないかな。なかなかそうなりえる人が出てきてくれなくて、困っているからこそ『キンプリ』に夢を見てくれたりしているような気がします。(p.9 菱田/同上)


依田 「絶対アイドル☆愛・N・G」で「僕はみんなのものだから」と言うんですけど、あれがアイドルの本質だと思う。誰かのものになった瞬間に、アイドルという偶像ではなくてリアルな存在になるんですよ。
菱田 ヒロは社会の生け贄になる覚悟はもう十分できているんですよ。(p.18/同上)


女性アイドルとは違って男性アイドルの場合、テレビや雑誌などのマスメディアをジャニーズ事務所がほとんど独占している状況が、少なくとも一九八〇年代以降続いている。それが二次元に男性アイドルキャラクターがこれほどまでにたくさん生まれ、また受け容れられている大きな理由の一つだ。(略)ジャニーズに対するオルタナティヴを求めたファンがいかに多かったかのあらわれだろう。(略)要するに、アニメやゲーム、それを原作とする舞台は、ジャニーズに所属することのできない(二次元、2.5次元、三次元)男性アイドルたちに新たな活動の場を提供しているのである。(p.30/虹の先を越えてゆくために......『KING OF PRIZM by PrettyRhythm』における四次元の想像力 ...上田麻由子)


それまでの「手のとどきそうな高嶺の花」でも「手のとどかない親近感」を持つスターでもない、「みんなして、高嶺で咲かせてあげよう」という気分にさせる存在が激増していた一九八〇年代において、「超新星からのメッセージ」をキャッチフレーズにする光GENJIはその流れに逆行するアイドルだったと太田省一は論じている。「アイドルとは身近で日常的な存在なのではなく、手の届かない王子様のような存在であることが再び強調されている」彼らの戦略には「"スター"たろうとする意思」が感じられたという。そしてこのころから「ジャニーズ以外にはこれといった男性アイドルが見当たらないような時代」が始まったというのだ。(p.33/同上)


アイドルは偶像である。実体があってはいけない。きらきらした夢のかけらからできていて、若さとカワイさで私達を夢の世界へ連れて行ってくれる。そうしたアイドルは「超絶的空虚 transcendent emptiness」であるがゆえ、ファンは無数の物語をその記号化した偶像に読み込む。実体がないゆえに、惹きつけられるのだ。アイドルは記号であり、その記号は人々を結びつける手段であり、場でもある。(p.81/きらきらの向こう側......男性アイドルとヒーローの結節点 ...須川亜紀子)


境真良は、アイドルの意味の変容を概観した上で、二〇一〇年代に訪れた女性アイドル乱立について、「「アイドル戦国時代」で戦っているのは、「アイドル」というより「アイドルの卵」であり、あくまで彼女たちの「ホンモノ」性を獲得していく切磋琢磨の過程劇こそが「アイドル戦国時代」の意味なのでしょう」と述べている。つまり、アイドルに魅了されるというのは、実は「ホンモノ」のアイドルになるまでの未完成を愛で、それを眼差し、応援することなのである。(p.81/同上)


ミト 考察が伸びれば伸びるだけそれがネガティブであっても売れるんですよ。
さやわか そういうものがあるんだと、プレゼンスが示せますからね。(p.106/キャラクターの歌声と音楽の場所......アイドル-ゲーム-アニメのリアリティライン ...ミト×さやわか)


ミト ライブハウスの減ってきたこのご時世、映画館でやればいいじゃんとずっと思っているんですよ。必ずしもリアルタイム配信じゃなくてもいいし、ツアーとか一日で全部終わらせられるんですよ。
さやわか 全部ライブビューイングにすればってことですか(笑)。たしかにそっちのほうが一回性はありますよね。
(略)
さやわか 体験性ということをむしろ二次元の人たちが見出してしまったのは皮肉というか、そちらのほうが進んでしまった感じはありますね。三次元の人はフィジカルをもっているからそれを使わなきゃと、自分がいって演奏しなきゃというのを当然のこととして考えてしまうけれども。
ミト 上映会だったらオールナイトでもできますし、夜中でもできる。会場も一箇所だけ借りればいい。こんないいことないですよ。それによって全地方のイオンモールでもなんでも全部でできるんですよ。一日で二四公演できてしまう。
さやわか 現場性という概念が問い直されているところはありますよね。(p.113/同上)


性別二元論異性愛中心主義の中で、アイドルが「(過剰な)女性性」を自ら演じることによって「男性」の領域とされる社会に進出すること、まなざされるものが自らの客体性の操作によって主体性を獲得し、「見られる/見る」という主体との非対称な関係性を保持しつつも「見せる(魅せる)/見せられる(魅せられる)」という関係にずらすことは、それだけで、「セックス/ジェンダー/欲望」の主体を撹乱することに成り得るだろう。(p.170/「変身」の変容史......アイドルにならなかった森沢優と、多重に変身し「女の子」を撹乱する『プリパラ」のアイドルたち ...柴田英里)


TVシリーズ超時空要塞マクロス』と劇場版『愛・おぼえていますか』は大筋のストーリーは同じだが、細部の設定はだいぶ異なる。初代に限らず、マクロスはTV版と劇場版では設定や物語展開が異なる。にもかかわらずシリーズを貫く年表が存在し、歴史的な出来事が記されている。どういうことか。TVシリーズも劇場版も、実際に起こった事件をもとにつくられたフィクション(新撰組や第二次大戦の映画がたくさん作られるようなもの)なのだ、と河森正治は述べている。(p.189/アイドルアニメとしてのマクロス......なんのために、どんな想いで歌うの? ...飯田一史)


「現場」におけるパフォーマンスやSNS上での発信は、アイドル個々の営為として表現/消費されるだけでなく、アイドル同士の「関係性」がパフォーマンスされるものでもある。とりわけグループアイドルが全盛となった二〇一〇年代にあって、アイドルというジャンルの大きな訴求力となるのは、群像劇としての側面である。(p.213/アイドルはアニメを照射できるか ...香月孝史)


しかしまた、人格同士の接近が容易であることは、ポジティブな相互の承認と、アイドルの人格に負荷をかけることとの境目を失わせていく。今日のメディア環境は、アイドルが人前に立つ「表」の時間と、プライベートである「裏」の時間とを切り分けることを困難にする。特定のイベントはメディア出演ではない時間帯になされるSNSの稼働は、アイドルたちにとって「公」でもあり「プライベート」でもあるような、その双方が浸食しあう瞬間である。ファンはそうした境界のあわいに触れることでますますアイドルへの愛着を深めてもいくが、アイドルは「ファンからの目」を前提にした振る舞いをどこまでも継続する必要に迫られる。もとより、アイドルが主要活動のひとつとしている握手会等のコミュニケーションは、パフォーマーと受け手という、能動的な行為に基づいた関係性上、「感情労働である」ことをドライに明言するのが難しいタイプの感情労働であるが、SNSでの活動もまたそれと類似の性質を有する。アイドルと受け手とのパーソナリティが関わりあうぶん、相互承認による充足感とアイドルの人格に際限なく負荷をかけるリスクとが背中合わせになる。(p.214/同上)


言うまでもなく、刹那性は三次元コンテンツの専売特許ではありえない。
この点において三次元のアイドルが固有の意義を持ちうるとすれば、刹那の高揚が消費された余韻の「その後」の生と消滅を、アイドルとして生きた身体が引き受けるという重さによってである。(p.222/同上)


もっとも広いアイドルの定義、最も広いですよ、最も広義なアイドルの定義っていうのをずっと考えてて、で考えたのが、魅力が実力を凌駕している存在、でその魅力と実力のギャップ分をファンが応援で埋める、この全体、ファンが応援で埋めるって構造込みでアイドルというのがようやく成立する、というのが僕の、まあ一番広義のアイドルの定義っていう。(TBSラジオライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』2012年2月18日放送分)
(p.236/アイドル、スター、そして都市......『サクラ大戦』から見える風景 ...新野安)


彼女たちの言葉は、帝都をいわば<交通の場>として捉えるものである。つまり、華撃団は帝都を、地縁のないもの、多様な出生を持つもの、歴史がなく浮ついたものが集結し、交流し合う場として規定している。(p.240/同上)


メディアの中の存在としてアイドルが活躍していた時代にも、当然コンサートはあり、メディアを通さずに見ること自体は可能であっただろうが、現在の、アイドルとファンとの距離は、確かに以前に比べてずいぶんと近づいたように思える。それゆえにトラブルが起こる場合も見られるが、テレビという時間的制約のある枠に入ることができないアイドルにも活躍の場が出来、ファンもまたテレビを介さない情報収集によって現場に赴くことが可能になった。こうした状況で、アイドルをめぐる生態系がそこかしこで出来上がっている。それはまた、地域の観光振興やまちおこしといった文脈に位置づけられるような形で「ご当地アイドル」を生み出す素地にもなっているだろう。現場に足しげく通うことで、アイドルを眼前で見る機会が増えると、アイドルを応援することで育てている、という実感もまた得やすくなったと考えられる。
(略)こうしてみると、現実空間、情報空間、虚構空間の三つを身体的、精神的に移動しながら、アイドルに出会える様々な回路が出来上がっていることが分かる。
(略)我々は、現実空間、情報空間、虚構空間上に偏在する「アイドル」をまなざし、「いないかもしれないがいてほしいもの」を求めて身体的、精神的に移動を繰り返している。(p.246/249/あいどるたちのいるところ......アイドルと空間・場所・移動 ...岡本健)