一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

一般人を煙に巻いて言いくるめたいオタクによる一説(再稿)

オタクにはとかく共通言語がある。住んでいるジャンルが違えど沸き上がる感情や行動様式、生態に似通ったものがあるのは、『ZUCCA×ZUCA』*1や『2DK』*2『トクサツガガガ』*3などの漫画を読んでいて痛感することだ。

そしてそれらの言語は、とかく“一般人”には通じない。虹が何色か問題*4ではないが、その語彙を持たないということでか何か余所の世界の人々には我々が感じること見えているものの存在を知覚してもらえないこと、あるいは取り違えられることすらあるのである。特にミーハー関連と取り違えられることなど憤慨ものである。

だからこそ、何とか一般人にも変換可能な事象に言い換えて言いくるめるのだ。以下はそういう目的の原稿草案である。



ーーーー

ジャニーズJr.を追いかけるというのは、キーワードとして「高校野球」と「世界史研究」を挙げれば良いのではないかとひとまず考えている。これだけでは何が何やらだが。


甲子園というのは言わずと知れた夏の風物詩であり、連想するワードとして「一度きり」であるとか、「怪物」などというものもあるかもしれない。もしくは、まさに「ガムシャラ」の代名詞などとも扱われているのではないだろうか。
全国数千校あるチームの中からその舞台に立つことができるのは49校であり*5、そもそもが高校3年間で当たり前だが3回しか挑戦権はない。それも一度負けてしまえばそこで終わりなのである。青春を捧げた一途さ純朴さ、あるいは時として現れる不遜な怪物、それらの渾然一体とした一夏の熱狂を楽しむ。そうして真夏の炎天下、汗にまみれ土にまみれ白球を追う球児たちの姿はことさらに尊い。高校野球にまったく詳しいわけではないのだが、世間一般の中にそういった認識があるように思う。

翻ってジャニーズ、特にJr.の話である。何度かツイッターでも引用したことがあるのだが、昭和の名作詞家・阿久悠は甲子園に関しての言葉を多く残しているという。
その中で震えたのはこれだ。

舞台は人を変える
人を作る
ある人は才能に気づき
ある人は気弱を発見して狼狽する
しかし
大舞台は結果に責任を持たない
変えるだけである


「大舞台は結果に責任を持たない」
これは、ジャニーズの現場においても同様に潜むものなのではないだろうか。そうして少年たちは刻一刻と変わっていく。人の目に晒され自分の無力さを晒され見据え、次の大舞台により大きな姿で残るためにもがく。あがく。それを一夏と言わずに自分に強いているのだ。しかも高校野球と違い「限りがない」ことは逆説的に、その進退さえ他の誰も責任を持ってはくれない。これはJr.という場所にいる場合に特に顕著だと思う。
最近などは辞めジュが未来から来たりいきなり3月にデビューするから新メンバー募ってみたりよく分からないマルチ的彼女紹介してきたりと波乱の流れだったが、そういう矮小な姿にしても、きっと舞台は責任を持たないのだ。結局は本人の人間性による。*6

ここで言う「才能」と「気弱」とは、一個人の中に混在するものと思う。
ファンの中には陰の努力なり葛藤を見せられたくはないという意見もあるだろう。表面、つまり顔面および体ということではなくいわゆる「才能」に価値をおきたいというような考え方。それも一つだ。甲子園におけるプレーのように、アイドルとして光輝くパフォーマンスを見せてくれればいい。そういう立ち位置の方もいるだろうと思う。
私の場合は、「才能」に対して自覚的になりそれを鋭くさせていく様と同時に、「気弱」を滲まされて愛おしくさせられたり、そういうことも体感してはいきたいと思っている。「気弱」な部分もあるのにそれに克とうとして舞台に立ってくれるのだとなれば、尚更尊さしかないではないか。
「点数」のように客観的な判断材料がない以上、主観をより濃くするためにはそれが有用だ。


ここに来て、冒頭の「世界史」に立ち返る。
ラップ詞を櫻井翔が起こしているのが、嵐2006年のアルバム『ARASHIC』収録楽曲『COOL&SOUL』だ。
その中の一節だ。

いま居合わせる 君 幸せ
この歴史を後世に語れるだろう?*7


この一節が、二重の意味で私たちを駆り立てる。

つまりは自分の目で見たいのだ。何かが変わる瞬間を。何かが変わるかもしれない瞬間を。
そうしてそれは同時に、「居合わせていない歴史は語れない」ことと表裏でもあるし、その前史にどのような価値があり評価があり意味があったのかが、容易には分かり得ないということでもある。だから勉強するしかないのだ。今を理解するのに必要な前史の事象、それだけでは足りない。その当時の情勢(とまで言うと大げさだが)やそこに至るまでの系譜を学ばなければ理解は深まらない。

自分のことで覚えているのは、当時はまだもちろんnoon boyzであった野澤と真田が2012年、キスマイ公演についたとき『torn』のパフォーマンスを行なったときだ。06年から嵐に入り、他のジャニーズについても番組で見るなどはしていたがその程度であった自分にとっては、『torn』が誰の楽曲かから知らなければならず、そしてそれを二人がやったことがなぜこんなにも物議となっているのかがわからなかった。真田担に降りて一週間も経っていなかったこともあって*8、その日は好意的なツイートから批判的なもの*9まで、ひたすらにふぁぼっていったような気がしている。


特に『「自分たちの曲を持たない」Jr.』を担当として持つ側としては、彼らが選んだものから彼らの思想を透かしたくて仕方ないのだ。ジャニーズ所属者自身がジャニオタ兼務であることは多い。彼らが全くの何の理解もなく感覚だけで選曲しているというわけではないと思うのだ。いやまぁ単純に見ていてかっこいいからというのもあるだろうし、実際パフォーマンス楽曲にどの程度の自由度なり権限があるのかは分からないけども、少なくとも歌って踊る上での彼らの何らかの咀嚼はあるはずであり、それを考えたいのである。

まぁここまで来て世界史と言うのはやっぱり大げさだなぁとは思うけれども、時には折に触れその学びが必要になるのも確かだと思う。




要はここまで、ジャニーズJr.を追いかける際の理論武装もどきである。耽溺しつつ深く知りたい。ここをおおよその核として、そのうちもっと実践的な内容にしていきたいと思ってはいる。*10

*1:はるな檸檬によるヅカオタの方々の日々の生き様を描いた漫画

*2:特撮・ミュージカルなどの若手俳優をフィールドとする女子たちの話。武内佐千子。

*3:丹羽庭。タイトルの通り特オタの中村さんが主人公だが、女児向けアニメ好き、ドルオタなども出てくる。一般人との間の齟齬を埋める毎度の比喩は秀逸だと思う。

*4:地域によっては虹は6色や3色として扱われるという。言語が世界認識を規定するというような考え方のときに出てくる話。ただし不勉強のためそんな深く言えない。

*5:現在は全国で4000弱らしい

*6:まぁ幼い頃から浸かってきた環境に対して、一言手を引いてあげる大人はいるべきだと思うけど

*7:改めて歌詞のきちんとした表記を確認して、「いる」が漢字であることに痺れた。前々から「いる」という動詞は状態ではなく動作を表すものではないかと考えたかったので、漢字で 書かれているといかにも有徴という気がする。翔さんがどれだけ自覚的に漢字を使ったのかは分からないが。

*8:担降りが4月2日、キスマイ公演が8日

*9:大倉錦戸以外がやっても無意味、という意見やそこまでは行かずとももやもやを感じていたりなど。それについては特に思うところはない。

*10:耽溺という言葉を引いたらわりあい否定的な意味だった。代わりを見つけるべきかなぁ。

行ってしまった1月と 逃げた2月と去るか3月

 

先日クリエ公演プログラムが発表された。そこにある真田の名前は名前のないまま4人で並んでいて、その4人に対するパフォーマンスの希望なんかもツイッター上には見られるようになって、そうなってくるといつまでもいつまでも「真田と一緒にいるのは野澤さんなの!唯一無二なのぬんぼは戻さないといけないの!」なんて言ってると自分がどうかした人間なんじゃないかなんておそろしくなってくる。気が触れた人みたいな。

 

思えば野澤真田のユニットに対する考えはどこか両極で、特に真田の方ははじめから「ユニット」という足場を盤石なものだとは思っていない節がある人だった。諦観の真田とか二つ名あげたい。
折に触れその対比はしてきたし、野澤さんからのユニットに対する発言なんてものももう久しくうかがうことのできる場面なんてもうないんだけど、要は結局のところ自己満足です。野澤真田の発言対比三撰。



撰 一

そもそもの事の発端はここだった。

[ジュニアが選ぶ!ジャニーズJr.なんでもランキング!!]
>最強コンビだと思うのは? 2位 野澤祐樹×真田佑馬(noon boyz

W1208の記事で、このランキングの1位はまだ関西Jr.であったばどの二人なので、実質相当な位置にいるものだと思っていい。*1
この結果を受けたコメントがこれだった。

野澤:印象づけられてるってことだよね!みんなの中にそういう印象をつけられてるっていうのは、大変喜ばしいことだよね。これからも今まで以上に切磋琢磨しながらnoon boyzという存在をひとりでも多くの人に知ってもらえたらなって思います!

肯定的な野澤のコメントとは対照的に、

真田:うれしいですけど、最強ではないと思いますよ?ボクらはゆったり、まったりやってるんで(笑)! 決して頂点を狙いにいってはいないです。のんびりやらせていただいています! うれしいけど、ボクらはてっぺん狙わない方向性で(笑)。


あんなにがっつがつしてステージ上で帝王みたいな振りしてるのに、一言も「このユニットでトップに立ちたい」とは言わない。うれしいとは言うんだけど、「けど」がどうしても続くのだ。

 


撰 二

私この記事ひきずりすぎなのは知ってる!知ってるけどね!でもだって重たいから!!!

真田:オレ、最近うれしいような悲しいような、複雑な夢見た。もう1回言っておくけど、これはオレが寝てるときに見た夢だからね!?
野澤:わかった、わかった(笑)。
真田:場所は軽井沢のログハウス。そこにオレらをふくめたJr.がけっこうたくさんいるんだ。で、「おまえたちのデビューが決定した!」っていきなり言われるの。
野澤:あ~、その夢か!『笑っていいとも!』の楽屋でしてたやつね?聞いたわ、聞いたわ。
真田:そーなんだけど、まだ言ってないこともあるんだよ。
野澤:…へっ?
真田:デビューの話はうれしかったんだけどオレらをふくめ、あの”バカレア”のメンバーも、いままでシンメで組んでたヤツらも、全部解体されて2組グループが作られたの。
野澤:うんうん。
真田:でも、結局1組しかデビューできなかった…っていう(と、野澤をチラ見)。
野澤:ダメだったほうにオレがいるんだな?(苦笑) でも、夢なだけに「なんだとー!?」とも言いにくい。それで喜んでるわけじゃなさそうだから許す!

奥底の心理がダイレクトに夢に出すぎているんだろう真田も*2、それを小出しにして吐き出す真田も、それを笑いながら「許す!」って言う野澤さんも、なんていうかすべてが尊い。尊いってこういう使い方じゃなかったような気もするけど、なんていうか見守ってハンカチやわやわになるまで噛み締めるしかない。


この後
(サ∀ナ)幼稚園のころは魔女になりたいって言ってた。その次がパティシエ。
とかもっちょーーーかわいいこと言ってるんですけど、それから

(サ∀ナ)いちばん[の今の夢]は、やっぱりCDデビューだよ。これはね、応援してくれてるファンのためにもしなきゃいけないと思ってる。

って言った後に、

真田:野澤の夢は、V6の7人目のメンバーになって、あこがれの健くんといっしょに活動しながらセンターを狙うことでしょ?そんなこと言ってたよね?
野澤:どこで見たんだ、そんな夢(笑)。
真田:じゃあ、何か? CIAの一員とかか?
野澤:なんでだよ! いまの夢は真田と同じだよ。CDデビュー!!
真田:本当にぃ~? その決意が顔から感じられないよ?もっと顔で伝えろよ!

とか言ってる。


(`サдナ)本当に?ほんとに私のこと好き?ほんとだって言うんなら証拠見せてよ!ねぇほら! 的な仮想少女漫画ばりのうざ絡みである。
まぁ野澤さんだって「真田”と”CDデビュー」とは言ってないんだけれど。
っていうかここで打ってて、ふぁっ…ファンのためとかどうでもいいからお前が幸せになって…っ!(顔覆う)っていう状態になってる。いや野澤さんと一緒になってっていうエゴ丸出しの記事打ってる最中に何言ってんだって話なんだけど。

 

 

撰 三

で、これである。

 

真田:野澤と組んで長いけど、この先noon boyzがどう進化していくかといったら、正直それはわからないよね。いままでの経験からしてもさ。それでかな? オレ、ぶっちゃけ”noon boyz”より”野澤と真田”って意識のほうが強いんだ。おたがいの性格もやり方もわかってるし、すごくいいバランスでいられてると思うんだけどさ。これからは「相方のことも食ってやる!」くらいの気持ちで、個々を磨くことも必要だな、って思う。そんなこと言うと、「もっと仲よくやってほしい」とか言われちゃいそうだけど…オレがこんなこと考えるのも、ある意味”グループ愛”だよ?

野澤:真田とは分かり合えてると思うよ。でも、かならずしも同じ思考を持ってるわけじゃないから、すんなりいかないことだってある。たとえば、コンサートでどんな曲をやって、どう見せるかとか話し始めると、意見食い違うとかね。でも、それってあってもいいことじゃん? 逆にないとつまらないし、進化もできない。だから”相性バッチリ”というより”いい距離感”なのがオレたちのいいところなのかもね。3月に『笑っていいとも!』が終わることになって、noon boyzがどう成長していくかわからないけどさ。できることならこのままがいい。真田以上に心地よく連携をとれる人は、そうすぐに現れないよ。



今もそう思ってくれてるかな。そうだといいな。

しあわせな4月を迎えに行きたいものです。

*1:ちなみに3位はWゆうた、4位はじぇしゆご、5位はツインタワーである

*2:この後、(サ∀ナ)金八の頃はバトロワ北野武さんの役が武田鉄矢さんになってた夢よく見た とか言ってる

He is penetrated with someone.

I can say that Sanada, my earnest talent, is categorized as "group of actors".
And I have wanted to think of classification whether the actors are LYRICAL or CHARACTERISTIC.

I quote these classification from 『日経エンタテインメント』in March, 2007. There was a feature of Nino appearing on 『Letters from Iwo jima』.


f:id:bookmared:20160209034600j:plain


In this graph, actors are categorized into 4 groups. His act is lyrical or characteristic? His face looks Japanese or Western?
This classification, LYRICAL or CHARACTERISTIC, is explained like this.

CHARACTERISTIC is typical of characters in comics.
There are seldom LYRICAL actors who can act moderately and naturally.


In addition, I quote this article.

《Ninomiya as ANALOG and Sakurai as DIGITAL》
ANALOG needs them to act with emotion and latitude, for example, in stories of So Kuramoto.
On the other hand, DIGITAL is typical in stories of Kankuro Kudo. The action follows speed of stories and is symbolic.
*1

We can say that LYRICAL/CHARACTERISTIC is nearly equal ANALOG/DIGITAL.


Even if I look at this graph maaaaaany times, it is very interesting that Sho-kun is on center and Nino and Jun are on the opposite.

Kamenashi is on LYRICAL, if anything. I wonder that people find him in his own stories.

And Yoko is CHARACTERISTIC although he appeared on 『拝啓、父上様』So Kuramoto wrote at that time.
In fact, I also think he is CHARACTERISTIC now, but because his action is CHARACTERISTIC not because he is given very characteristic characters!


If we remake this graph, I think Kaza-pon is near Nino and Toma is near Sho-kun(but Toma is a little to Western).



Now.
If I choose only one side, I think Sanada is a CHARACTERISTIC actor.
However, it is due to one-sided appearance on characteristic direction so far.



Nozawa says

Surely, Sanada is suited to be an actor. Can I say you are a possessed type?
During drama, you have the nature of your character in private, don't you?
Although we pass by in TV station, you mumble in a low voice without looking at me.(D1310)

The reason Sanada mumbles is:

When I appeared on 『金八先生』, I asked Mr. Takeda(Tetsuya) how to remember lines. He taught me that I should repeat lines until they penetrate me. And it's enough if I remember them when I am hit. Since then, I do this way.

Due to this teaching, Nozawa met Sakuya-kun(Sanada's character in『心療中』) even in toilet. And even when he acted Linus(Sanada's character in 『Ocean's 11』) , a very peted character, he was called a stone statue by Hagi-chan in the dressing room.

Finally,

I can't be out of my character soon. So I reserve haircut in a week after important works. By haircut, I may return to myself. If I don't do that, I think of the work endlessly.(D1410)


That is how Sanada is.

In short.
I think the word "be possessed" is not enough.
I wonder that Sanada is not possessed but gives himself to characters --- for himself.


He mumbles again and again. Until the words penetrate him.


So, I'm sure that he will show his state which has the character's mind even in lyrical direction.



The appearance on "Coin Locker babies" in June has been decided. I don't know which direction the stage is in.

But, I will go to see someone who has Sanada's face, Sanada's voice and Sanada's body.
I will see you, you give yourself to someone.




*1:別冊宝島 ジャニーズ超世代!「嵐」を呼ぶ男たち』in 2009

台詞の海に身を浸して(「He is penetrated with someone.」日本語版)

真田佑馬、といういわゆる”演技班”である自担を持っているわけだが、一度徹底的に考えたいと思っているのがジャニーズ演技班の「キャラクター型/叙情型」分類だ。この2つの項目は07年3月の日経エンタテインメントでニノが『硫黄島からの手紙』に出演した直後辺りに組まれた特集の中の一図表による。

 

f:id:bookmared:20160209034600j:plain

 

この通り、ジャニーズ事務所に限らず当時(からほぼ今までと言って差し支えないだろう)活躍していた役者を「キャラクター型/叙情型」および「和風/洋風」を掛け合わせた4つのフィールドに分類している。

本誌ではそれぞれについての説明は

マンガの登場人物に代表される「キャラクター型」で、控えめでナチュラルな演技ができる叙情型は少ないと言われている。

といった程度しかなされていないが、同等の主旨を追記するとすれば、この引用が適しているだろう。

 

《アナログな二宮とデジタルな櫻井》

ゼロ年代のドラマを振りかえるとき、二宮和也櫻井翔の存在は象徴的だ。ふたりの対比には、ゼロ年代のドラマ全体の趨勢がクリアに反映されているからだ。

二宮は、倉本聰の『優しい時間』のような文芸/映画的演出の作品に起用され、櫻井は、宮藤官九郎の『木更津キャッツアイ』のようなアニメ/マンガ的演出の作品に重宝されてきた。倉本聰は、富良野という聖域にひきこもることで、情緒ある普遍的なドラマを成立させてきた。一方、クドカンのドラマで多用されるカット数や会話の情報量が多い演出は、携帯電話やインターネットが普及し、情報環境が肥大した日常を反映した現代的な手法だ。

両者を違いは端的に言うと、アナログ/デジタルと表現できる。倉本ドラマが求める、情感や奥行きを込めた演技がアナログで、クドカン・ドラマが求める、作品のスピードと同化するような記号性の高い演技がデジタル。*1*2

 

 

ざっくり、ゆっくりとした流れの文芸的な作品に合う演技が叙情型、スピードのある演出に合う、あるいは記号的に演じるものがキャラクター型だというわけだ。

 

何度見ても、翔くんを軸として末ズが点対称状態なの面白すぎるし、この時点での出演ラインナップが『金八』、『ごくせん』、『金田一』、『野ブタ』、『サプリ』、『たっ恋』だった亀梨さんが叙情型寄りにあるのは、彼が背負わされた背後の物語性が透かされているのかなどと考える。

あとこの雑誌が出た当時それこそ倉本作品である『拝啓、父上様』に出ていた最中であるヨコがおもっくそキャラクター型にいるの超面白い。いや実際キャラクター型だと思うんだけど、あの人は演技がキャラクター型っていうんじゃなくて、おもっくそ二次元設定みたいな役ばっかりくるからや。*3

 

 

今この図をつくりなおすのであれば、ニノと同じような位置に風ぽんが来るんだろうし、斗真が洋風寄りの翔くんと同じような位置かなと思う。

翔さんが今なおデジタルな役者かというのは『ブラックボード』や『神様のカルテ』を挙げるとぶれてくると思うのだが、基本の軸はやっぱりデジタルだと思っている。

 

 

翻って。

真田の場合は、どちらかというとキャラクター型の役者だと思っている。ただしそれはあくまで、これまでに出た作品がおおよそキャラクター型演出に偏っているためだとも。

 

野澤をして 

きっと真田は役者気質なんだよ。憑依型っていうの?ドラマやってるときって、プライベートでも役の雰囲気引きずってるじゃん。テレビ局の廊下ですれ違っても、目も合わせず小声でブツブツ言ってるし(笑)。*4

 と言わしめ、そのブツブツ言っているというのは

3年B組金八先生』の時、武田鉄矢さんにセリフの覚え方を聞いたら、「体になじむまで覚えなさい。どつかれても言えるようになっていたら、もう大丈夫だよ。」と言われて。それからは体に入るまでブツブツ言うようにしています。*5

 って話だし、そのせいで廊下どころかトイレに行っても野澤さんは朔也くんに会うはめになるし、ライナスちゃんなんてかわいがられキャラをやるっていうのに萩ちゃんに石像扱いされたりする。

挙句、

余韻はガツガツにひっぱるほう(笑)。舞台にしろドラマにしろ、大事な仕事が終わったら髪を切らないとダメなんだよね。絶対に1週間以内に美容院を予約する。それでふだんの自分に戻るっていうか。そうやってリセットしないと、終わってもそのことばっか考えちゃうから。*6

というのが真田という人間である。

 

要はだ。

憑依と言うのも足りない。降ろすというよりも、そのキャラクターに体を明け渡す系の役者なのではないかと思っているのだ。

 

 セリフを呟く。 何度も何度も、体に叩き込んで、それが自分の中に根を下ろすまで。

 

 

そういうわけで、いざ叙情的な作品が来ても、その役を体に宿した姿を見せつけてくれるのではないかと思っている。

 

 

6月に決まったコインロッカー・ベイビーズが果たしてどちら寄りの作品か分からないのだけど。

私は、真田だけど、真田の顔と体と声をした誰かを見に行くのだ。誰かに体を明け渡したあなたを。 

 

 

 

*1:09年刊『別冊宝島 ジャニーズ超世代!「嵐」を呼ぶ男たち』なお、原文ママ

*2:この引用レビューを書いた成馬零一氏は後に『キャラクタードラマの誕生』という本を出版しており、キャラクタードラマを自身の造語として4種の定義を挙げている。

・漫画やアニメを原作とするドラマ、もしくは漫画やアニメの表現(方法論)を作に持ち込んだドラマ(例=『南くんの恋人』、『金田一少年の事件簿』、『ケイゾク』)

・役者のキャラクター性に強く依存したドラマ(例=木村拓哉が主演のドラマ)

・主人公の個性がドラマの前面に出ているドラマ(例=『古畑任三郎』『相棒』)

・人間の内面をキャラクターという表現で描いたドラマ(例=『野ブタ。をプロデュース』)

*3:この雑誌よりも後だけど、清四郎とか本間さんとかゲストでヴァンパイアになったりとか夢人お兄ちゃんとか0号室の支配人とかな!!!あれ0号室ノベライズ見たけど、あの支配人ヨコが採点マシンつくった人物の孫とか業にとらわれすぎだわ!!!

*4:D1310

*5:STAGE SQUARE vol.13

*6:D1410

once and for all ー 風 is a Doll?OPに見る提示

どうも。僕です。
パリマニもともかくMaybeの沼も深くて真田担はそこから未だに抜け出せない。あとはやっぱり、Oh Yeah!で手ぇ振っちゃうしLucky ManのラップとC&Rとか準備しちゃうし例えばの話ー旋律奏でてーってがなるよね。
どうも。僕です。


せっかく英語でものを書く練習をちょっと始めたところなので、OPのナレーションでどんな表現が使われているのかの書き起こしとそこから少し思ったことを、と思ってたら意外に長くなった。あと結論が湿った。
しかし日本語には全部句点がついてるのに、英文は「怪盗団を結成した」以下で初めてピリオドがついてるのは意図的なのかなぁ。
まずは書き起こしから。



In a place nobody would never know
誰も知らないような場所に

there is a place where the dolls lived silently
人形たちがひっそりと暮らす場所がある

Used around like a marionette
彼らは好きなように操り人形にされたあげく

Thrown out being called a 'junk'
ガラクタと呼ばれてその場所に捨てられた。

[One day I will become a human being]
「いつか人間になる」

That was their dream
それが彼らの夢だ。

But in order to do so
ただ、そのためには

They thought that a human soul was necessary
人間の心が必要だと彼らは思った。

How can they get the soul
どうすれば心が手に入るのか

After a thought, they decided to steal the soul
考えた彼らは盗み出すことに決める。

And so they formed a 8 men group of robbers.
8人で一つの怪盗団を結成した。

Which was,
それが、


[風 is a Doll?]


They are active during the night when the world goes go sleep.
彼らは人目につかない夜に活動を始める。

Just maybe
もしかしたら

your soul might be stolen.
あなたの心も盗まれてしまうかもしれない。

...hmm
…ん?

tonight is the night before the night of action.
今日は作戦実行の前夜…

Seems like an assembly is about to happen.
決起集会が行われるようだ。

It's going to be big.
今夜は盛大に暴れることだろう。

Feel their beat.
彼らの鼓動を感じてくれ。

And go wild once and for all.
そして、盛大に暴れてくれ。

The word is...
合言葉は…




でここから言いたいところだけ。

In a place nobody would never know
there is a place where the dolls lived silently
誰も知らないような場所に人形たちがひっそりと暮らす場所がある

どこまで意図的なのかが分からないのであれだけど、現在形isと過去形livedが混じった文。
無理にでも考えようとすればlivedが過去形なのは今からの「8人/8体」はそこを出て暴れるからっていうのと、それでもその「人形が打ち捨てられる場所」は変わらず在り続けるっていう意味にもとれるのかもしれない。

楽曲大賞のコメントで「風 is a Doll?」というのは風刺でつけられたのだというものがあった*1。要は反語だ。
場所は、とりまく環境は変わらなかろうと俺はそれを飛び越えてでも在ってやるっていうことも言えるのかな、などと。

Used around like a marionette
Thrown out being called a 'junk'
彼らは好きなように操り人形にされたあげくガラクタと呼ばれてその場所に捨てられた。

風刺だとしたらだいぶんきっついねふまたん?!!?! ただのdoll=愛玩対象と言うだけではなく操り人形と言う重たさ。

[One day I will become a human being]
That was their dream
「いつか人間になる」
それが彼らの夢だ。

単複の明記が必要なのが日本語にはない仕組みで面白いよねぇ
人間になりたいと言うのは「We」ではなく「I」なのだけど、「their dream」彼らの(複数)夢(単数)という表現には、異口同音的な、あるいは蜘蛛の糸的に、望みは1つみたいな意味合いがあるのかもしれない。

And so they formed a 8 men group of robbers.
Which was,
[風 is a Doll?]
8人で一つの怪盗団を結成した。それが、[風 is a Doll?]

ここからがなぜか英文にもピリオドがついてるよのターン。最初の過去形/現在形の話とつなげると、覚悟をして「動いた」人形とそうでない人形との決別、区別なのかもしれない。
明確に意志を持って、分かたれた現実(今から心盗むっていうのに意志を持ってというのもおかしいけども)。

あとは、今まで"a human being"とか"a human soul"っていう表現は出てきてて、ここでも"a 8 men group of robbers"というものが続くんだけど、これを「8人で一つの怪盗団」と訳すのは肝だと思うんですよ。「8人で怪盗団を結成した」でも日本語はいいところを「一つの」と冠したというのは、例えこれが風磨を除くメンツの、一夏のと言わずJr.という刹那的な時間の、その流動的なくくりの一部でしかないとしても、この場ではこの8人が「一つ」だったという表明にもとれるのではないか。
そう思うと、それをパッケージとして残してくれたことは余計に、オタクにとっても本人たちにとっても縋になってくれそうな気がする。

Feel their beat.
And go wild once and for all.
The word is...
彼らの鼓動を感じてくれ。そして、盛大に暴れてくれ。合言葉は…

Party up!

ってことで本編が始まるわけですが。


once and for allというのは、調べてみると「きっぱりと」とも訳せてまぁ盛大にに係るのかもしれませんが、それより前に書いてあったのは


「これっきり」


そういう意味でした。

一度、それで全部だ。
確かに語義的にもその訳は納得がいくものです。



風磨は、後の雑誌でこんな風に言葉を残してくれています。

俺はSexyZoneだからJr.と共演するチャンスはあるけど、みんながそれぞれデビューしたら、同じステージにはなかなか立てなくなるわけじゃん。もちろん、誰よりもみんなのデビューを望んでるのに、この8人で同じステージに立つのはこれが最後なのかもしれないって思ったら、さみしいって感じてる自分もいてさ…。*2


『Once and for all.』

楽しくてずっとそこにいたくて何度でも繰り返したくても、どこかへ、前に行かなくてはいけない。
それぞれが、それぞれの場所に。
やっぱりどこまでが意図的なのかは分からないけれど、この箱が一夏のものであることは、当たり前だけれど初めから提示されていたわけです。


私自身、真田がどこにいてほしいのか、誰と一緒にいれば幸せなのかだんだん分からなくなってきている部分はありますが、それでも、その夏確かに、「一つの」仲間ができたことを、うれしく思います。
ふまたん、ありがとうね。


それではまた、パリマニの亡霊に戻ります。


*1:「風 is a doll?というタイトルは、誰が人形だ(人形扱いするな)というアイドルのイメージに反発する風刺もこめた、人間の心を奪う人形の盗賊団(Jr.も含む)の名前という設定。」コメントの半ば辺りにありました。
http://j-m-a.info/award2015/live/12#181
勝手に引用させていただいているので、万が一ご本人さまが目に入れて引用を望まれないようでしたら削除します。

*2:Myojo特別編集『MyojoLIVE!』


長々とこんな書いてますが、現場には入っておらず完全なるDVD出です…

キイロとピンクとグレー

おととい、読みさしだった小説版『ピンクとグレー』を読み直し、それから昨日映画版『ピンクとグレー』を観に行ってきた。例の“62分後”から後については多くの方がそれぞれに感想を書かれているのでそちらに任せるとして、この場ではひとまず62分描かれた劇中劇『ピンクとグレー』に焦点を当てて感じたことを書いてみたいと思う。


「ごっちが特別」だったことが描かれていた小説版に対して、映画版は「りばちゃんが凡人」ということに視点が注がれていたように思う。凡人というのも違う。映画版のりばちゃんは明確に、「クズ」と言って差し支えのない人間だと思う。
なんといっても菅田りばがサリーを襲うところ。あれはない…。あの1シーンひとつで、りばちゃんの人間性の根底がクズのまま固定されてしまった。

というのはまぁ憤り*1として置いておいて。
そうして「ごっちが純度が高い人間で、だからこそ自分との解離に焦ったり一方で守りたいような存在として書かれていた」小説版と比べて「姉を自ら抱えていた面なりカリスマ性はあるにせよ、そういったごっちに対して、あるいは世間一般に対して、大きな口ばかりでプライドも劣等感も大きくて」っていう映画版のりばちゃんを見ながら私が思い出したのは嵐がかつて主演した『黄色い涙』だった。


黄色い涙』は本当に大好きで、公開当時東京にいた私はグローブ座で3回、それから11年に恵比寿ガーデンプレイスで再度上映された際に1回と劇場で見たのだけれど、なんというのか、劇中客席が笑うタイミングというのが同じだな、と感じたのだ。要は、「痛々しいほどに世間から置いていかれている瞬間」を、世間は笑う。

私は栄介さん(ニノ。漫画家としてきちんと労働している)の部屋にダメ人間3人(章一くん/相葉ちゃん。歌手志望、圭くん/大野さん。画家志望、向井竜三/翔さん。小説家志望)がたむろして、っていう酒盛りの場面で*2、酔っぱらった章一くんが泣きながら「やるよ…?ちゃんとやるよう…」っていうところで笑いが起きるのが本当に解せなかった。それは私も努力ができない人間の側だからなのかもしれないけど、突き抜けた努力ができないことを笑われるっていうのが嫌で、言うたらあれだけど、えっみんなそんなSHOCKコウイチの側にいるの?章一くんはそんな笑われる側なの?みたいな。あとね!あとほんと終盤の章一くんがのど自慢に出ててカーン!って鐘が鳴るところで笑いが起きるのもほんと解せないの!あそこ泣くところじゃないの?!!?!ねぇ?!!?!



という個人的感覚はともあれ。それと同じことが出てきたのが、売れてきたゆとごっちと菅田りばが初めて絡みのシーンをできることになり(原作ではそれはごっちの意図や配慮で用意されたものだと明言されている)、現場でりばちゃんがごっちにいつもの調子で挨拶をしようとするも無視され、「おはようございまーす…」と小さく呟いたところだ。確かに劇場は笑っていた。
大人の、社会人としての対応を問えば、確かにりばちゃんの気楽すぎる呼び掛けは場に沿うものではなかったろうが、そこからの撮影シーンはどんどんどんどん、ごっちとりばちゃんの距離を明確にしていく。
端正な裕翔くんの顔も相俟って、そこに「白木蓮吾」として現場を背負い立つ姿の正しさは、力は圧倒的で、自分の力のなさを、小ささを痛感したりばちゃんの目には、堪えきれない涙がたまってゆく。台詞も喉につっかえる。言えない。ここの泣きの演技がアドリブだと知ってものすごく驚いたのだけど(本当に、全編通して菅田将暉の演技はものすごい技量だった)、前述のサリー事件も一旦置いて、これはあんまりにもりばちゃんの、「自分の存在価値の喪失」とまで言える悲しみや悲痛さに同情的になった。
そこから挟まれる再びクズのターン(サリーんちに行ってまた襲いかけたり、数年経って養われてるような辺り)はもう言い募るのもあれだから再度置いとくとして、(劇中劇の)最後、首を吊った白木蓮吾の、ごっちの足元に縋りつくシーンは圧巻だった。その膝下、立派な靴を履いたままの足元を閉じ、二本の足を手にその間に縋る様は、その足を使ってりばちゃんもまた首を吊っているようにも見えた。だから、映画版『ピンクとグレー』、その“ピンク”の間の出来事は、りばちゃんをあまりにクズとして描いたことはともかくとして、終わり方としてはよくできていたのだと思うのだ。




監督が「映画にするにあたっては、男と女じゃ越えられないような、つき合っていた女たちですら嫉妬するような2人の関係を描くか、あるいはそこにもたどりつかない少年の解り合えなかった想い、死を分かっている人間と分かっていない人間の話にするか、どちらか。で、後者だったんだよね。」と語っている以上*3、そこから更に本来のりばちゃん=中島裕翔を更に本来のごっち=柳楽優弥から突き放す必要があった。死んだごっちを姉と絡めることで更に異質な存在に高め、りばちゃんは世俗のできごとと絡めることで自身の卑俗さを種々露にさせた。


これは紛れもなく、りばちゃん=中島裕翔主演の物語であり、これはあくまで加藤シゲアキの『ピンクとグレー』を原案とする二次創作だ。こういった意見は他にも散見されるものと思う。


ただ、あの劇中劇を1本の作品として膨らませたとき、そこに見えるのはやるせない黄色なのではないかと、私は思っているのだ。*4



*1:小説が改変されていることに対してではなくて、男が急に女を襲う描写が差し込まれることなり、その後も女側がわだかまりなさそうに描写されていることなりに対して

*2:潤くんは本当に全うに働いているお米屋の祐二くんです。ほんとに、ほんとにかわいかった…
ノノ*`∀´ルしょういっつぁん、またしょういっつぁんの曲、聞かせてけらや。オラ、章一めろでーのファンですから
おにぎりつくってきちゃう祐二くん…生活に困ってるみんなにお米あげちゃう祐二くん…しかし最終的に、章一さんと付き合ってた時江ちゃん(香椎由宇)と結婚して農家やってるラストシーン。すごい。

*3:劇場パンフレット

*4:あとは、小説ほどさほど「渋谷っぽさ」を感じなかったのも、『黄色い涙』を想起した一因かもしれない。幼少期の団地が横浜から埼玉になっていたこと、どうも中学受験をしたような描写がなく高校生活が非常にふつうの公立高のそれのように見受けられたこと、2人のルームシェア先、あるいはサリーと住む場所の沿線の描写。どれもが比較的「郊外」を思わせるもので、だからこそ小説のりばちゃん以上に「同じところにいたのに」という感覚がそもそも映画版では失われていたように思う。

カウントダウンを繰り返して(前記事「before "Ignition"」日本語版)

というわけで、いよいよ英語部さん企画の本番に参加させていただくことにしました。と言って書いたのが前記事です。以下日本語の原本を置いておきます。
こないだよりも英語ができてない感覚があって、なんでかっていうと句動詞がうまく使えてなかったり語順があんまり腑に落ちてないからです。(そもそも日本語が不自由だと言ってはいけない)
まぁそれでもとりあえず。




ーーーー


カウントダウンという題目に臨むに当たって、まずは辞書をひくところから始めてみた。
ダウン、という語にはやはり下がる、後退するというようなイメージがあるので一度「8、2、1」*1をテーマにしようかとも思ったが、そもそものカウントダウンの項を引いて気が付いた。

countdown [ロケット発射の時などの]秒読み

そう。
カウントダウンとは点火を直前にしての行為なのだ。

暗闇の中飛び出す瞬間を見据える。
震えるとすればそれはおそれではなく武者震いだ。*2
そうして、一瞬で目の前の視界を塗り替えると、そう体現して。



一瞬で世界が一変するようなことなどというのは、現実にはそうそう起こらないだろう。二十歳になれば、三十になれば大人になると思っていた私たちが結局何も変わらないのと同じように。


結局カウントダウン、そうしてそののちの世界を変えるというのは、そのひとりの覚悟によるものなのではないか。


そうして彼らは、幾度もそれを繰り返す。1つのステージごとに、1つのパフォーマンスごとに、一度の帰路ごとに。俺はこうしてやる、俺はこうなってやると決意を掲げ、その毎日を繰り返す。

それを自分に課し、実行し、その姿を見せてくれるから、彼らは尊いのだ。




真田の話をしよう。

「2016年も良いことだらけの年にしたいと思います」

他の方も話に上げていたが、ここで「も」とつけているということは、今年1年は良いことにあふれていた、という気持ちがあると思ってよいのだと思う。そう思ってくれることが、うれしいと思う。


突然のジャニーズワールド投入に始まりDREAM BOYSへの出演もあり、ここ数年になく板の上に立つ時間が多くとれたことも一因かもしれない。
また今年はガムシャラサマーステーションへの中盤からのMC参加、菊地風磨のソロコンサート“風 is a doll?”のメンバーとしての登場もあり、こちらもやはり「他のジャニーズJr.との関わりを多く持った」ということで、これまでと違う変化を感じたのかもしれない。


ただしここで私が特別に言っておきたいのはやはり、他のJr.が成し遂げたわけではないものーー主演舞台の経験ということだ。


私は結局真田を唯一だと思っているから、ものの言い方が偏重していてもそういうものだと思ってほしい。彼が主演舞台を成し遂げ一定の評価を得たことは事実だ。


直近の女性誌で真田はこう話している。

主演舞台「TABU」をやらせていただけたことが大きかったです。素晴らしい役者さんとご一緒させていただき、外の世界で揉まれることの大切さを学ばせていただけたおかげで、役者としても人としてもひとつ抜けられたかなって感じます。*3


日を数え秒を数え明けた2016年に、真田がどこに向かっていくかはまだわからない。

より役者専業に近付いていくのか、とうとう、名前がついてしまうのか。あるいはこのままか。おそらく本人も預かり知ることはできない環境もあるだろう。


ただ。どういった道になったとしても、彼のいく先を応援していたいとは思っている。彼の繰り返すカウントダウンに、彼の繰り返す覚悟に、何度でも付き合って。
そういう2016年にできたら、幸せだと思う。






英語版にも載せておりますが再度。こちらの企画に参加させていただきました。

*1:みすの、ぬんぼ、今の話

*2:「怖いのか」「いいや。武者震いさ」っていうこの流れは昔漫画で読んだ覚えがあって、私の遍歴からいって和田慎二だとは思うんだけど詳細が思い出せない

*3:女性セブン15年12月24日号