一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

お前はその愛を外から見たかーー劇団番町ボーイズ☆×10神ACTORコラボ公演『甘くはないぜ!3』<オモテ>

初めての大阪公演!と福岡に入ってきました。
まずはあらすじをと思ったのですが自分で書いてたら2500字とかまた長くなってきたのと解禁時の公式と実際がちょっとずれているので、公式をもじる形で初めにちょっくら。


<あらすじ>

激動の時代の中、日本で初めてチョコレートを作った(!?)サムライたちの物語。
……時は幕末。世の中が大きく変わろうとしていた時代。
ひょんなきっかけで、その時代にタイムスリップしてしまったショコラティエの主人公。

そこで出くわしたのは、長崎を追われた侍や騒がしい長屋の住人たち、愛を謳うキリシタン旧幕府軍を掃討せんとする新政府。
それぞれの決意や守りたいものが、立場が異なるなら力を持って争うしかないのか? いいや違う。行なわれることになったのは「しょこらとる」対決。
「茶の席での友好を」と願いを込めて。死ぬことを厭わず武器を向け合うのではなく、思うまま自由に生きようという気持ちを胸に。

激動の時代の渦にのみこまれつつ、主人公は最高のチョコを作り上げ、元の時代に戻ることが出来るのか……!?
壮大な歴史ロマンを、甘ーいチョコレートでコーティングした、 日本初、幕末スイーツバトル演劇。


自分で書いた細かい方も最後に置いときます。



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よい顔。


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1853年黒船来航を始期とする「幕末」の終わりの定義には67大政奉還、68江戸開城、69箱館戦争終結、71廃藩置県等々揺らぎがあるらしく、新旧統治陣営が混在していた時期を単純に二分することはできないのだろう。だからこそこれらの流れは視点を変えれば「明治維新」の端緒とも言える。
それでも確かに『甘くはないぜ!3』は、「維新」ではなく「幕末」の物語だった。
これは、過去を切り捨て袂を分かっていくのではなく、残した思いを引き連れて、自分を見つめ共に行く人々の話だったのだから。




導入の語り部として常吉が顔を出しはしたが、実質的なストーリーテラーはスコーン卿であっただろう。スイーツバトルを提案したのも彼であるが、OP前には葛切に向けよりよい未来への期待を投げ掛け、そうしてまた大団円ののちに「新しい風が吹くでしょう!」と言葉を残したその導き手としての態度は一貫している。

反面、俯瞰、というのは渦中の人間には難しいことだ。もやもやしたものを抱えて、自分に自信がなくて、でもこんな自分でもいいんだ、と実際に思えるようになるには結局「自分が」何かに直面することでしか叶わない。現代からタイムスリップしてきた千代太はショコラティエを選んだ道筋に迷っていたが、幕末の仲間と共に得た体験(それは勝っても負けても)を越えて自分を取り戻していく。侍でありながら剣術が不得手であった餡之丞も、場を戦ではなく友好の一歩へと転換することで刀を有用とすることができた。スイーツバトルへ向け奮闘する中で千代太は興奮して声を上げるのだ。「ようやく役に立つときが来たんですよ!僕も、その刀も!!」

また対決後のエンディングでは、いくつかの縁が結び付き直す。
新旧軍勢として過去に斬り結んだことのある葛切と饅次は酒仲間として。弾圧を挟んでいた政府の聖護院とキリシタンの天使郎は「仲直り」を。そうして慕情故に嫉妬に苦しむ寺数は同じく天使郎から愛を教わった藤次に、他の考え方を示してくれる喜多衛門に、"推し"を支える益兵衛に、多くの手を向けられて歩き出す。柚之介もまた、戦うことも死ぬことも選べなかった幼さから抜け出し、「生きる」道を拓く姿を見つけていた。

あるいはその契機となった饅次と柚之介のシーンで明確に言葉にされるが、この物語の彼らは決して完璧ではない。それどころかちょっとおかしいくらいに自由で、それこそ芝居役者にのめり込み"推し活"に多大なエネルギーを注ぎ込む益兵衛であれ、他人の評価がどうであろうと好きに生きる喜界であれ、彼らは歪で、だからこそどこか愛おしい。



スコーン卿が初めに未来を示唆し葛切が応えたタイミングで「現代の」悩める千代太の登場が交差し、千代太が神頼みする場面から「神様の子」天使郎と寺数のくだりが映るなど、この舞台は数多くのシーンが同時に折り重なる。そうした舞台の手前と奥、上手下手の構成の絡まり具合は、座組の人数の多さも相まって一見での陣営の整理がなかなかに難しかった(己の理解力はひとまず置いて)。またその整理の立ちゆかなさは、千代太の置きどころが埋もれてしまっていたせいではないかな、などとも思う。例えば影が薄いなら影が薄い、頼りないなら頼りないという面こそを強調しなければ主人公としての演出は事足りないわけで、本当に影が薄くては話を引っ張る存在としては認識しづらい。この場合、千代太の影が薄いわけではなくて他のキャラが濃すぎるというのが正しいだろうけども…!
この物語の雑多さは、千代太ー餡之丞ー天使郎という三角形が決して綺麗に出来上がってはいないことによったのだろうな、と思う*1

ただし、私は批判として述べているわけではない。先も言った通りだ。
「歪だからこそ愛おしい」。
これが明確に「千代太が主人公の」物語として練られあまりにすっきりしすぎていては、おそらく物足りなかったのではないだろうか*2。雑多で、それぞれが己の人生を暴れまわって、皆が涙が出るほど笑ってしまうような。そんな物語だった。




私がよく引く本に、こうした言葉がある。

「愛」というのは、もともとはっきりと対象をみさだめて、その存在をたいせつにし、いとおしむことである。目のまえに存在しない対象への渇望感とは、かなりちがう。いま、ここに、存在している対象の、美点も欠点もわきまえて、それでもなおその対象をたいせつにする行為だろう。
*3


みんな、みんなおかしくてかわいくて大好きでした。
だとすれば、私がこの舞台で得たのは紛れもなく「愛」なのです。








<あらすじ長文版>

新政府軍と旧幕府軍の戦火が続く明治元年戊辰戦争の端緒である鳥羽・伏見においては新政府が勝利を収め、その形勢は次第に傾きつつあった。

幕府軍の大敗より数日。ただでさえ旗色の悪い長崎奉行所に、奉行・河津祐邦が出奔したとの報が入った。しかし残された侍・天見餡之丞(糸川)は、指導者を失う状況にも関わらず軽快に受け止め、遊撃隊士・胡桃柚之介(矢代)の非難もかわし後追いで長崎を出ようとする始末。2人は薩摩の追手である葛切黒蜜(佐藤)、織吾藤次(三岳)や兵(青木)らから逃げ切るも、そこにはタフィー・ナッツ将軍(南米)、クロテッド・スコーン卿(関岡)等米英の思惑も絡む。世情は混迷を極めていた。
「あなた方新政府に投資するのは、未来をよりよいものにするためです」
「もちろんつくってみせますよ。この国の輝かしい未来を!」
残された卿の台詞に一人返す葛切。
時は幕末。
世の中が大きく変わろうとしていた時代。

<OP>

時が流れた現代。
ショコラティエの青年・加賀尾千代太(二葉要)は頭を抱えていた。一大イベントであるバレンタインへのプレッシャー、店長としての責任、それらのせいで自ら買い込んでしまうチョコレートと反比例して減っていくお金…。おかしな両親も当てにならず、なぜこの職業を選んでしまったのかとまで悩み始める千代太は、偶然出会った有名パティシエ・天見団護(糸川二役)に激励を受け、傍らのお稲荷様に願を懸ける。先祖の代から自分の仕事は決まっていたような気がする、そう力強く言う団護を思うと頼りなくもへたれた気持ちだけれども、どうか、どうか、バレンタインがうまく行きますようにと。

神への願いが重なるように、場面は再び幕末へと戻る。
新政府からの苛烈な弾圧の中にあるキリシタンたち。甘草天使郎(坂田)、埴井寺数(松島)もその難の例外ではなく、殊に”天草四郎のうまわかわり”とされる天使郎への追撃は鋭いものであった。天使郎は敵にすらも愛を向け、寺数を逃がしてひとり投降することを選ぶ。成す術もなく、世の不条理な有りように憤る寺数。彼は力尽きたところを商人・番町屋喜多衛門(佐田※福岡公演)に拾われ、急速に金の力に目を眩ませていく。

そうして。
いつの間に眠ってしまっていたのか、千代太が目を覚ますと辺りは様変わりしていた。現代の東京にいたはずが、ここは明治元年、博多改め福岡だという。訳も分からず行く当てもない千代太は、神社で出会った飴売りの常吉(西原)からひとまずの宿として長屋を紹介される。
折しも長屋では、大家の加賀尾益兵衛(二葉勇)が喜多衛門、寺数から借金の返済を迫られていたところだった。和菓子屋の傍ら勤しむ歌舞伎役者への”推し活"と、借金との天秤に嘆く益兵衛。店子と言えば謎の発明家・安納喜界(馬越)に酒と博打ばかりの侍・酒蒸饅次(堂本)、誰もかれもちゃらんぽらんで普通でないし、そこへ常吉がまた得体のしれない千代太を勝手に連れてくるものだから悩みが尽きるわけもない。
その喧騒の中で話題に上がった「しょこらとる」。南蛮渡来の甘い菓子だという。千代太はそれがチョコレートであることに気が付くものの、自分がショコラティエであること含め、アクの強い面々の前では流されうやむやになってしまうのだった。


その頃、長崎を発った餡之丞と柚之介、彼らを追う葛切と藤次にナッツ将軍とスコーン卿、また捕らえたキリシタンの視察に下ってきた公家・聖護院是清(織部)らもまたそれぞれ、福岡に集っていた。餡之丞とスコーン卿は別々の場所で、尚、異口同音に願いを謳う。「武力ではなく、茶の席での友好を」と。
また新政府のキリシタン弾圧に難色を示すスコーン卿は、新聞記者・小倉羹羊(梶原)をうまく使い、天使郎の解放及び日本との交渉を立ち行かせる案を巡らせはじめる。

その夜はちょうど祭り。皆が浮かれる音を遠くに聞きながら、藤次は牢中の天使郎と邂逅を果たしていた。百姓の出であり、力を求めるために自ら刀を持った藤次は、"天草四郎のうまれかわり"に何を武器として戦ったのかを問うも、それは愛だと言われ思わず悪態をつく。そんなもので勝てるわけがない。愛など、そんなもので強くなれるわけが。反発する藤次に天使郎は、ただ当たり前のことのように、愛の強さを諭していく。

一方長屋の面々は、寺数の発案による新ビジネスとして「しょこらとる」の開発を言い渡されていた。ここに至っても千代太は取り合ってもらえないまま。またもや常吉が連れ込んだ"訳あり"餡之丞、柚之介も巻き込みつつ、喜界主導の「しょこらとる」づくりは大混乱である。
満足そうに賑やかさから離れる饅次。派手な着物で酒に浸る様を柚之介から批判された饅次は、仲間は武士の誇りを胸に2年前の戦場で皆死んでしまったと明かし、これからは自分で自分のことを自由に決められる時代が来る、そのためには真正面から頑なに向き合うだけではない、生き延びて楽しむことが先決だと説く。この長屋の連中がいい手本だと笑いながら。
そこへ葛切、藤次が現れた。長屋に餡之丞たちがいることを探し当てたのだ。やはり真っ向から向かっていく柚之介を引き止め逃がす饅次。騒ぎを収めてくれと益兵衛に請われ渦中に餡之丞が登場するも、いざ刀を抜いてみれば剣術の腕は一同が呆気にとられるほどの間抜けさで場は混乱するばかり。

これ以上迷惑はかけられないと身柄を差し出す餡之丞と柚之介、2人を突き出して得た金を"推し”に遣うことなどできないと引き止める益兵衛、一方で金がなければ借金も返せず長屋が立ち行かないと収拾のつかない事態に、スコーン卿、ナッツ将軍が揚々と躍り出る。2人を捕らえるか見逃すかのその処遇、新政府と旧幕府の争いを、「しょこらとる」の対決で決めようと言うのだ。
武器を向け合うのではなく、誰かを殺すのではなく、菓子による勝負を。


餡之丞や長屋の住人たちの命運は、この国の未来をつくりたいと願う大人たちの思いは、天使郎が諭す愛の行方は。
そうして千代太はショコラティエとしての自分を取戻し、現代に帰れるのか。
かくして、ここに幕末スイーツバトルが決せられるのであった。

*1:本当に要くん云々の役者の話じゃなくて、単純に演出側のバランスとして。対決という趣旨もあるので餡之丞さまと天使郎も前に立てないといけないし、番手のつくり方の問題だろうなぁ

*2:コミカライズとかするなら千代太の一本線通した方が読みやすいと思うけど

*3:I call your nameless name now./ジャニヲタ英語部投稿の日本語版 - 一度や二度の悲しみじゃなくて http://bookmared.hatenablog.com/entry/2016/05/01/001525