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一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

我が人よ 真幸くあれと 二十四度

真田

今年の真田出演舞台2本は、共に赤ん坊の泣き声から幕を開けた。『コインロッカー・ベイビーズ』に関しては既にまとめているので暇のあるときに読んでもらえればいいと思うが、ところで今日は、真田の誕生日である。
1992年生まれ。今年24という年男の彼を思えば19の頃から追いかけているのだから気付けば早いものだ。そうは言っても彼が事務所に入ったのは11歳のときなので、全然誇れるような長さの担当歴でもないのだけれど。

 

『ダニー・ボーイズ〜いつも笑顔で歌を〜』という舞台は、脚本上の粗を探すとキリがないような部分も確かにあったのだけれど*1、それでも心の動いた良い舞台だった。

サチオの生涯は1990年に幕を閉じる。自由な空を飛び続けた彼は自らの飛行機の事故で亡くなるのだ。直接その瞬間が描かれたわけではない。それでも、自担が死ぬというものを見せられるのはこんなにもつらいのだとは思ってもみなかった。例えば今までの彼の役柄の経歴から言って、こうなんか、罪を罰せられて死ぬとか、狂気で逸して死んでしまうとかならありそうだったかなぁとは思うのだけど、いやまぁそれはそれでたぶんつらいのだけど、だがここで感じたつらさは、それはおそらく、「周囲に夢だけを与えて先に逝ってしまう」ことに原因がある。まるで、人のために生きるのが自分の使命なのだと微笑んでいる人が、追い縋ってもここにいてくれないような。どうして自分の幸せを追ってくれないの。

 

 読み込みはまだ浅いんですけどね、と注釈するが、じゅうぶん、真田は役へとのめり込みつつある。物語の後半にはめちゃくちゃ重要なセリフを見つけたようで、「なに、これ、すごく重い2行!……があるんですよ」

 事前に舞台誌のインタビューでこう言っていたのもあってその『2行』に気を留めていたのだが、それはまさに死後の(と思われる)彼が、「あのね、」とあまりにも優しい、泣きたくなるほどやわらかな声で語りかけ始めるその言葉だと私には思えた。

 「僕たちは自由だから。生きているだけでいいなんて、そんなのは夢じゃない。自分が何をして生きたいか。それが夢だよ」

 

初見時、なんでこの人はこんなにも、自分を追い詰めるような言葉を口にするんだろうと思った。ただ漫然と生きているだけではダメなんだと。自分の道を決めて、追って、飛び続けようとしない人生に価値はない、そんな風に自分を責め立てているんじゃないかとつらくなった。

それは常々、この人に漂う自分への厳しさを思っているからだ。いつも仕事のことを考えていて、立ち位置に、技術に、行く先に悩んでいて、自分を許そうとしない。そういう生き方の人だから、サチオとして死んでしまう姿を見て、「そんなに背負わなくていいよ、ただ幸せに生きていてよ」という気持ちと、「そもそもこの人の思う幸せを私なんかが規定できやしないんだ。彼がそう安穏とした道に価値がないと感じてもがくのならその後ろ姿を見守るしかない」という気持ちとが同時に立ち昇って泣くしかなかった。

何年か前にとっつーの連載で、イノッチが真田にかけた言葉が引かれたことがある。

「お前が21歳まで生きてこられたことに感謝してる人がこの世界に最低二人はいるんだから。お父さんとお母さんはお前が生きてるってことだけで幸せだと思うよ」

読んだ当時は、こんな言葉をかけられるなんてどれだけ思い悩んでるんだよなどと草を生やす程度には気軽に見ていたのだけれど、いざ死なれると本当にもう生きているだけでいい。それだけを本当に切実に思ってしまった。

 

そもそもラッキーマン、と称されつつ、サチオに対する考察はほのかに悲しさがある。

いつも前向きで、幸せそうに歌っていると見えるかもしれないけど、幸男は脳天気な男じゃない。(略)"僕はラッキーだから"というセリフが何度が出てくるんですが、すごく気になったんです。それって逆に、ラッキーになりたい自己暗示じゃないか。みんなに"幸男はラッキーマンだから"と言われるプレッシャーじゃないか、と。そういうところを掘り下げていくことで、幸男の深い人間性が見えてくると思うんです。

人には何かしら崇拝するものがあるとして、幸男にとってはそれは歌。歌を崇拝することは彼を救うけど、現実問題としての彼は救われていないかもしれない。だからこそ彼は歌いたいんです。

幸男だって認められたくて一生懸命だったんだって、歌えばみんなが寄ってきてくれるから歌うんだって、表には出てこない本音を伝えられる演技をしたいと思います。

 二段目の解釈は難しいのだけれど、要は「この先には希望がある」と縋にすること、なのではないだろうか。歌っていれば、このステージにいれば、僕は幸せになれると信じて立っていくことで手一杯なのだと。信じていなければ、やっていけやしないのだと。

こう言葉が出るからには、それを引きずり出すだけの感情がどこかで自分の中にもある。そういうことなのだと思っていた。

 

それがある朝、唐突に、あの『2行』への異なる解釈が瞬いた。

冒頭、戦争を経験したツネは言う。
「夢、…ですか。寝てるときに見る夢じゃない、夢。
――死なないこと。生きて、いけること。
全部まとめて、…運が、いいこと」
それに呼応する形だとするならば、サチオの言葉は、こう言っているんじゃないのか。

 

死なずに生き抜くことが夢だなんて、そんな世界は終わったんだよと。もっと欲張りになっていいんだよと。

 

「僕たちは自由だから。生きているだけでいいなんて、そんなのは夢じゃない。自分が何をして生きたいか。それが夢だよ」

 

 

どうか、もっと欲張りになって。
自分のしたいことを、自由に、手に取れる、そうして人の輪の中に笑っていられる道を歩んでください。
真田佑馬様。24歳、おめでとうございます。
ここで生きていてくれて、私は、泣きそうなくらい、幸せです。

 

 

 

*1:満鉄勤めのサチオ父は戦後5年すぎまで難を逃れてあんな上流っぽく暮らせてたのかとか1950年サチオが生まれたときにかぶさる爆撃の演出はなんだとか、1990年没のツネさんが50年産婆さんやってサチオが1人目って言うの計算合わなさ過ぎるとか(原作のツネさんは2010年ぐらいに引退式をやっている)、1976年1月が本公演ならプレビュー前の稽古って75年の話じゃね?とか、その当時ホットの飲み物にコンビニカフェみたいな飲み口付きのフタなくねとか(隣に座っていた友人が大千秋楽でそこを確認しだしたので鬼!と思った(笑))。あとはとにかく「歌っていられれば、そうして人とつながっていられれば場所には頓着しない」質が見えた原作のサチオだからすんなり繋がったパイロットも、舞台ではトニー賞への悔しさを一つ挟んだことで捉え方が難しくなったなーと思う。