生き物と僕とにまつわる寓話
数と文字とにまつわる寓話
さもなくば一握の砂を
以前の記事で、阿久悠の詩を引用し「ジャニーズJr.と甲子園は相通ずるものである」という暴論を打ち出したことがある。まあ彼ら自身が、というよりもこちら側が描写するスタンスとして、と言うのが正しいのだと思う。
幸いにも図書館にあったので、先日完全版として編まれた詩集を読むことができた。氏が亡くなる前年までの足掛け27年にも及ぶ連載からなっている。500ページ弱。タウンページくらいでかい。*1
その27年間に及ぶ毎夏の15日間、氏はテレビの前で一日の4試合分の一投一打までを凝視し、その一日の一番心が動いたシーンを詩に残していったのだという。*2
僕は当日の注目カード一試合を見て……と依頼した。ところが野球は筋書のないドラマ、どこでいつ、どんなクライマックスが生まれるか判らないからと、阿久さんは全試合をフォローする。*3
野球に特別通じているわけでもない自分であっても、聞いたことのある選手の名前もまじえ、またそうでなかろうと、年をめくり戦歴が重なっていくと、見も知らぬその選手の、高校の、都道府県の感情的な軍記の姿に否応なしに巻き込まれていった。なんていうか、タイムスリップでいっとき触れ合った人物の最期を書物で見届けたような気分。そんな経験ないけど。
さて、何故高校野球が好きなのかと云われても、答に窮する。余りに多くの要素があり過ぎるからである。(略)胸を叩きつづけるから、毎年見るし、毎試合詩を感じるのである。それは、どっちが勝ったとか、負けたとかは関係ない。ぼくの問題なのである。
スポーツを競技者の側から書いたものは沢山ある。傑作もある。しかし、スポーツを見る側から書いたものはない。
ぼくは、一球の行方が見る側の胸をどう云う叩き方をするか聞きたいと思っている。
あとがきを読み、そうだなぁ、詩は一貫して「見る側」から書かれている、だからこそ身に覚えがあるような感覚に追われるのだということに気が付いた。またその観戦のスタンスは、「いつどこで戦況/戦列が入れ替わるか分からない」舞台で「自分の担当がどうのしあがるかどう変わるか」(あるいは広く見れば「どこで誰が確変を起こすか」)、すべてが行方の知れない環境に置かれ、その瞬間に「魅せられたい」、居合わせることに「震えたい」一心でいるジャニオタとも同じものがあると言えそうにも思う。(再びの暴論)
あと最後の一文、はてブロ巡りするジャニオタみたいだなって、ちょっと思う…(暴論の重ね乗せ)。
数百数十篇もの詩が読まれた中で尚自分の感覚を振らすものを、と抜き出してみると、自分が見たい姿に共通するものは野心、あるいは自尊心であり、また同時にその裏を貫く未成熟さなのかな、と思う。
(なお、以下の引用は一篇の全体ではない)
汗を流し 砂にまみれ
時に血と涙までもまじえて
ぼくはここへやって来た
何ものにも代え難い月日が
音たてて過ぎて行き
ぼくを小さな戦士として
甲子園へ押しやった
甲子園のマウンドに立つ
立つからには憎まれたい
今 この場に立って
さわやかだの
無欲だのといわれたくない
やはり ぼくは勝ちに来た
勝ちに来た
(「さもなくば一握の砂を」1980年8月9日一回戦 日川(山梨)対南宇和(愛媛))
「立つからには憎まれたい」
っ超ーーーーー!!!真田のモノローグに!!!つけたい!!!!!!!!
立つことは憎まれること、と背負っている感じもいい。これぐらい、ガツガツしているといい。舞台も時も、彼らには限られている。
それを気迫と見るか
平常を失った昂揚と見るか
眼に熱い光を持ち
動作の一つひとつが跳ねる
仙台育英
それを余裕と見るか
劇的な興奮を避けた姿と見るか
トゲ立つところが一つもない
落着いた動きをする
上宮
それが対決する前の両校の
炎と風の印象だった
(略)
コンマ以下の差であろう両校が
片や 夏に吠え
片や 夏に跪き
熱風と草いきれの中で
季節の猛々しい踊りの中で
狂おしいオペラは幕を閉じた
(「対決のあと」1989年8月20日準々決勝 仙台育英(宮城)対上宮(大阪))
草いきれ!私草いきれって言葉大好きなんですよ!!! こう、夏の草の青臭い湿気、べとりとした汗がはりつく、風が吹くと一抹の冷気が出る感覚のする言葉。
もはや血の滲むような努力なんて、誰もがしているのだ。誰にどう優劣があると言い切れないのも同じだ。全ては預かり知らぬ"誰か"の采配で、一瞬で決まってゆく。
その中で、豹変するかのごとく変貌を遂げる少年が出ることもあるだろう。
よりしなやかに よりしたたかに
勝つための本能を身に備えて
やわらかく しなりながら 君は投げる
剛であろうとするはやりは消え
(略)
もはや 手をさしのべて
可愛いとささやくことを許さない
(「愛しの甲子園」1980年8月14日二回戦 横浜(神奈川)対江戸川学園(茨城))
この詩の解説では「愛らしいと思えた要素のすべてが、闘争本能の未熟部分であったことがわかるのだ。」と添えられており、今断トツこの言葉を将来贈りたい大賞はうみんちゅである。えっうみんちゅが男になったら超絶かっこよくない?!男すぎて死ぬやつじゃない?!
けれど、その自信の中には恐れもあるだろう。
舞台は、いつだって盤石なものではなく、個人の努力を置き去りにする。
幸運は吝嗇で
決して気前よくふるまってくれなかった
幸運に出会うためには
待つことは許されない
常に幸運より早く駈けて
巡り合いをつくらなければならないのだ
勝敗は気まぐれで
勝利の予感に対して いつもさからう
努力は怠惰で
ぼくらの努力を見落とそうとする
青春の過酷で
時代とひきかえでなければ
充足をくれない
(「逃げるなよ蜃気楼」1980年8月20日準決勝 天理(奈良)対横浜(神奈川))
舞台は、無慈悲さを曝す。
甲子園って何でしょうね
と問われたら
そうですね
やっていたことがやれない子と
やったこともないことがやれる子と
少年を二種類に分けることでしょうね
と答える
(「大いなる証明」1994年8月11日一回戦 江の川(島根)対砂川北(北北海道))
それでも、私たちはそこに立つ彼らを見届けることをやめられないのだ。
なぜと問うなかれ
それぞれが
それぞれの神話と再会するのに
なぜが必要なわけがない
甲子園は鏡であり
人々は同じに見えて全く違う
心が汗をかく祭典を見ている
一億人の祭りに見える人は悲しく
一人の祭りが一億行われている
と 思える人は豊かだ
だから
なぜと問うなかれ*4
舞台の上に居る我が担当たちは、それぞれの覚悟と光を十二分に背負って、重荷を買ってそこに立っている。
そこには、甲子園と違い自動的な"卒業"はない。オートマティックな退場は未練悔恨にもなれど、もしかしたらどこかで理由にもなるかもしれない。「だって、これで終わりなんだから」
終わりのない道ならば、共に見据えたいと思うのだ。人いきれの中、光に身を焼き立つ、我らが自担の行く先を。
*1:http://www.aqqq.co.jp/koshien/koshien_top.html
99~06年のものはweb上にも残されている
*2:晩年は体調の問題もあり、準決勝、決勝の詩のみとなっている
*3:p.448「甲子園の詩」はこうして生まれた
*4:出典メモするの忘れた…バカ…何回目かの開会式か一回戦の詩でした
五月晴れ 御旗を掲げて (*サ∀ナ*)まるっ
クリエのくくりで改めて他担さんに触れていただくことも増えてきた昨今、しかし「真田くんってどんな人?」と問われても、我が担当ながらマジ筆舌に尽くしがたい。
自信満々に(*サ∀ナ)若者の略語とかみんな分かんないでしょ?KD=「気持ち悪いけど大好き」だよ! とのたまうし(正しくは高校デビュー)、靴紐結びながらでもトイレでも寝るし(靴紐のときは5分くらい動かなかったので野澤さんに (;のωん)もしかして…死んだ…?!と本気で心配された)、なんかうまくいかなかったときに「あーもうダメだ、仏の道に入ろう…」とかつぶやいてるし、ごく最近ご存知の話で言えばイラスト伝言ゲームで「アダムとイブ」を繰り出した上で、苔で作った作品は「もうすぐ終わってしまう牧場を見つめる人(端の方が砂漠化している)」なのである。
謎の生き物としての面を挙げればおそらくキリがない。
それでも真田の確固としたものを挙げるとするならばそれは、演技班という立ち位置だ。
実のところ13年の『心療中』以降ドラマ出演自体は途切れているのだが、入所の04年にすでに1本主演ドラマの場をいただいているし(『四谷くんと大塚くん』)、名の通った『1リットルの涙』『金八先生』を含めJr.としては結構な数のドラマ経験を持っている。去年は翻訳劇『TABU』主演も務め、この6月には『コインロッカー・ベイビーズ』での5役兼役も控えている。この辺りの歴は、生半可な"メディア班"ではなく"演技班"として主張していきたいところである。
で。その彼がここしばらく言っているのがこれだ。
(*サ∀ナ)真田です!真田丸に出たいです!
言って出られるとも限らないのだけれど、諦めずに言い続けている我が自担。
しばらくずうっと言っている感覚だけど実際どのくらいだ?と自分でも気になったのと、ちょっと興味を持つきっかけになるものかなぁと思って、引っ張り出してみることにしました。
ーーーー
ひとりで長野へ行こうと思ってるんだ。なんでかと言うと、上田城をはじめ、信州のあのへん一帯は真田幸村や“真田姓”を持つ人のゆかりの地らしいから。オレも過去帳や戸籍帳を使って自分のルーツを探ってみたものの、江戸時代より前のことを調べるのは難しくて、正直、自分と長野につながりがあるのかはわからないんだけど、同じ真田姓を持つ者として興味を持ったからには「とりあえず行こう!」と思ったんだ。それで、大学の論文も“もし真田幸村を演じることになったら、どこを訪れればいいか”をテーマに書くことにした。そしたら、いつか真田幸村を演じることになったとき役に立つだろうし、できることなら2016年の大河ドラマ『真田丸』にも出たいな…とか思ってね(笑)。 D1409
今思ったけど、明治ぐらいまではご先祖遡ったのだろうか…遡れなくもないか…。
これは放送前の話。制作発表が14年5月とのことなので、9月号取材が7月中ということを考えると、決まってわりとすぐの時点から主張していたわけである。
「いつか真田幸村を演じるとき」ってもちろんタイトルロールは突然達成できることはないだろうけども、どうなんだろう、いきなり幸村本人というポジションを得るには来年のジャニワか滝沢歌舞伎に戦国時代をねじ込んでもらえばいいんだろうか。いやでも高地先生も豊臣秀頼やってたりするしな…でも歌舞伎も11年以来出ていないのでここらで殴り込みかけてもらいたい(過激派)。
ところで先日も
(*サ∀ナ)朝からべろんべろん!!!
と溺愛ぶりを見せていた真田家の愛犬はずばりサスケちゃんである。言わずもがな猿飛佐助に由来して真田父が名付けている。さすが真田家の父。トイプードルのサスケちゃん。
お写真はこちら。
かわいいよ。かわいいんですよ?!えっあっ犬にはお洋服着せるタイプなのねとかいう発見もあるんですよ!
_ 人人人人人人_
> サングラス <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
ひと回りもふた回りも大きく成長した真田佑馬に、'16年の夢を聞いた。
「願望はいっぱいあるんです。シェイクスピア劇もやってみたいし、白井晃さんの演出を受けてみたいですし。でもやっぱり、“真田”の姓を持つ者としては、大河ドラマ『真田丸』に出たいなぁ…なんて(笑)。いつか声が掛かる日を夢見て、頑張ります!」 STAGE SQUARE Extra'16
常に(笑)がついているのがいじらしい…。
真田の場合、ギターもボイストレーニングもキックボクシングも映画鑑賞も、みんなみんな「芝居の仕事につながれば」と思っている人だ。苦しくない?と思う。一般的に見れば手遊びの、遊びに行く、息を抜くための場所を技術を追求する場所にしなくちゃいけなくて、つらくない?と思ってしまう。まあこの場合でもそれがすべてじゃなくてちゃんと楽しんでいる面はあるだろうし、サーフィンとかもっと別のところに開放感を求められてはいるのだろうけど。
他のJr.にとっても言えることだろうけど*1、エンターテイメントに従事するって大変だなぁと、考えながら、多くのものを求めてしまっている。
【2017年3月までに達成したい目標】
“真田”の名前をいかして、大河ドラマ『真田丸』に出たい!
(16-17Jr.カレンダー付録DATA BOOK)
この設問だとなんとなく安心できる。あくまで『真田丸』には固執しすぎず期間限定の目標として掲げて、ゆくゆくは"真田"にとらわれない大河出演が誰の眼に見ても満を持した形で叶えられればそれでいいなぁと思っているのである…。
しかしかねてから不安に思っている。
真田ちょんまげ似合いますかね…!
潤くんの武蔵ちゃんみたいな感じだったらいいのかな*2。真田の場合、内博貴から濱田岳まで顔の幅があると思っているので、信長協奏曲の家康やった濱田くんみたいな感じかな…とイメージ想定をしている…
名前といえば、ずっと「真田丸」に出たいって言ってるんですけど、まだオファーは来てないですね…(笑)。でもまだ諦めてはいないですよ! 誰が見てくれているか分からないので、言い続けます! TVfanCROSS vol.18
相っ変わらず(笑)がついてるよ!もうなんかひとまず、ドル誌で時代劇の格好やらせてあげてもらえないものですか!!!
ちなみにここでは乗馬への動機は
(サ∀ナ)乗馬は、名前に「馬」がついてるのに乗ったことないのはダメだなって思って。
というよく分からない理由にすり替わっている。いや時代劇出たいからって言ってたのでは?!!そんなに馬こだわるんならちゃんと三冠馬はさんかんばって読んで! (サ∀ナ)さんかんうま
あとそれなら中山の優馬さんに村を焼かれたのち復讐を誓う生き別れの双子物語Wゆうま主演ストーリーやろう。馬に!乗るんだ!!!そして誤解が解けたものの刺し違えて炎に沈んで死ぬ。
ーーーー
手持ちを数えあげてみると計4回で思ったほど多くなかったのだけど(たぶんとりこぼしてる)、ともあれNHKには届くだろうか。
コインロッカーの舞台が終わっても、放送は折り返し地点である。*3
真田佑馬の真田丸出演を祈念して。
I call your nameless name now./ジャニヲタ英語部投稿の日本語版
唐突に、恋と愛の違いはなんですか?と問われた場合、あなたは何と答えるだろうか。
「恋」には「レン」という音読みに対して「こい」という訓読みが存在している。「愛」には、その概念を一語でぴたりと言いきる名詞の訓読みが、ない。*2
「恋」は、今ここに無い対象への渇望感にもとづいているらしい。
(中略)
「こい」という和語は、「恋(レン)」という漢語の訳として適切である。
そのころの日本人には、中国で儒教などが用いていた意味での「愛」は、定着していなかった。(中略)孔子がもっとも重んじる「仁」という徳目は、どういうことか、という弟子の問いに、孔子は「人を愛す」ることだとこたえている。(中略)「愛」というのは、もともとはっきりと対象をみさだめて、その存在をたいせつにし、いとおしむことである。目のまえに存在しない対象への渇望感とは、かなりちがう。いま、ここに、存在している対象の、美点も欠点もわきまえて、それでもなおその対象をたいせつにする行為だろう。「愛」には、対象の美化でなく、対象への判断がなくてはならない。「神の愛」を「デウスのごたいせつ」と訳した宣教師たちの語感は、たしかなものだったというべきだ。
また、一人一人の世界のとらえかたの違いによっても、言葉は違ってあらわれます。「ゆび」と言ったとき、すらりとして細い指を思いうかべるか、とごつごつ力強い指を思うか、人によって違います。
なるほど、毎日の生活の中では、私たちは言葉のおおよそ共通している部分で、すませています。そうでなければ、くらしていけませんから。ごつごつしていても、すらりとしていても、手の先にあるあれ(文中傍点)は「ゆび」ということで、すませます。
けれど、日常の言葉では表現できない体験や思いを何とか言葉にしようとしたとき、私たちは真に新しい言葉を求めます。それは、たった一言である場合もあります。また、何千・何万という言葉をつらねた、長い文章になることもあります。
つまり、日々のくらしの中では、言葉はおおむね伝達の道具でしかありません。けれど、未知の体験や感覚や思想をあらわそうとしたとき、言葉はただの伝達の道具でなくなります。だいたい共通していることを伝達するだけでは、すまなくなっているからです。ごつごつしていても、すらりとしていても「ゆび」ですが、ある人のある指に心を動かされるという体験をしたとき、その指そのものを言葉にしようとしたら、ありきたりの言葉を失うでしょう。
日常の、単なる伝達の言葉を失ったとき、表現の言葉、詩が生まれ出てきます。そして言葉のほんとうの姿、そのほんとうの価値は、こちらにあるのです。なぜなら、言葉は、電話器にくっついている電話番号ではないからです。現実の世界をどう区切り、どのようにとらえるか、という人間の問いかけが、言葉の中にはふくまれているからです。*4
*2:漢字の使用範囲が広すぎても狭すぎても文章が読みにくくなるので、「みんなだいたい一般的にはこれくらいを使おうねぇー」というのが"常用漢字"である。例えば「愛おしい(いと-おしい)」とか「愛でる(め-でる)」というようなのは訓読みではあるけれども、常用で決められた範囲からは外れる"表外"の用法にあたる(ついでに言うともちろん名詞ではない)。もちろん、それくらい読めるという人もいるだろうけど、あくまで常用かどうか、というのは人がつくった目安としてのルールなので、言い出しても詮ないというか、そういうのを議論するのはまた別の場所である。他にも例えば、小3で習うことになっている「悪」を「アク」「わる-い」と読むのは常用、「にく-む」と読むのは表外。
*4:安藤信広『漢詩入門 はじめのはじめ』1989年、東京美術
*5:「「混淆(ごたまぜ)」や「動揺る(ゆすぶ-る)」のように、当該語と語義の重なり合いがありそうな漢語を書く漢字によって表意的に書き、それに振仮名を施すというやり方である。」今野真二『百年前の日本語ー書きことばが揺れた時代』2012、岩波書店。念のためだけども、「混淆(コンコウ)」「動揺(ドウヨウ)」が音読み。
*6:「たとえば、「動物のイヌ」の概念をi-n-uという音列で表現する必然性はない。もし仮に両者の結合が必然であるなら、いかなる言語も同じ方法で音列と意味が結合していなければならない。つまり、「動物のイヌ」は英語でも中国語でもi-n-uという音列になっているはずである。しかし、実際は異なる。」斎藤純男、田口善久、西村義樹編『明解言語学辞典』2015、三省堂。要は、お互いに伝達しあわないといけないからある程度はかたまってるけど、指示対象・概念と音なり文字なりとの間の結びつきに本来必然性はないということ。
I call your nameless name now.
*1:Generally, we write kun-yomi in hiragana and on-yomi in katakana.
ごはんの時間だよ 早く手を洗っといで
野澤さんが恋しいらしい。少なくともこの1ヶ月で3回野澤さんが夢に出てきている。私が告白する夢と野澤さんが伊野尾さんに挑発されてる夢と、クリエかなんかを見に行ってたら見学の野澤さんがステージに上げられて「これ当たりやん…!」と咽び泣く回。私は野澤さんのなんなんだ。
最近、お母さんが作ってくれるパスタが好きなんだよね。あれは何味なんだ…? んー(思い出せず、お母さんに電話。)アンチョビだって!作り方はそんなに難しくないんだろうけど、オレが料理することは一生ないだろうから、また食べたくなったら作ってもらおう♪
じつは、俺、料理自体がほぼ初体験…。今まで、家庭科の授業以外で包丁持ったことないし、そのときは軽く指切っちゃうようなレベル。そんな俺だけど、みんなにさっぱりした夏の料理を提案したかったから、焼きそばに和風ソースを合わせようって、すぐにひらめいたんだ。…というか、いためるだけでいい“焼そば”しか、作りあげられる自信がなかった(笑)。(中略)味も悪くないんだよ!? イヤ、むしろ俺的にはあり! 食感がべっとりしちゃったのが、悪かっただけなんだよう…(泣)。 M0809
何かで料理する企画のときさ、オレは盛りつけるときはお皿の全部を使わないで、中央に置くとキレイに見える…とか考えながらやるんだけど、野澤さんは皿の上にドン! ケーキのスポンジの上に生クリームをボンッ!!って、おおざっぱなの。でき上がりは、デコレーションケーキっていうより、ピカソの作品みたいだし。 D1302
野澤 じゃ結論としては(俺の)絵のセンスはないってこと?
真田 ま、そうなるよね(笑)。手先が器用じゃないのかな。
野澤 俺不器用。料理もできないし。
(中略)
真田 ただ将来、野澤の彼女になる人、彼の料理を見てびっくりしないで(笑)。じつはすごいアーティスティックな料理を作る人なんです。
野澤 そうそう、味は保障できません(笑)。 P1302
料理が得意な真田くんに「早く〜食べた〜い!デキル男ガンバレ!」とオレンジやりんごをむかせる野澤くん。 TVfanCROSS1208
[みすので共同生活をしたら誰がどういう役割か?という話題で]
宮舘 オレも得意ってわけじゃないけど、カルボナーラくらいだったら作れるよ。でも毎日8人前作るのは大変だろうなぁ〜
野澤 あ、言っておくけど、オレは2人前必要なんで(笑)W1005
最近『笑っていいとも!』でアルタ入りしたあと、9時半ごろになると無性におなかがすくんだよ。で、朝食として、マーボー丼とパスタとかダブルで食べちゃうの。さらに、本番後には行きつけのパスタ店で、お気に入りの冷製パスタを”特盛り”で。コレ、2人前はゆうにある。夜は、白米ナシでおかずだけバーッと食べたあと、納豆を2パック食べるのが定番なんだけどさ。 D1311
【オリジナルかき氷をつくってみよう!!(W1410)】
(;のωん)★★☆☆☆ 塩分がけっこう多いから…まずくないんだけど、水っぽくなるからうすいしょうゆ飲んでるみたいな感じ。ちょっと想像と違う!
Q.自分で作る一番の得意料理は何?
たまごかけごはん。これが精一杯!何かの企画で料理をしたことがあるけど、ボクに料理の才能はありませんでした(笑) W1210
【2017年3月までに達成したい目標】*3
料理でも始めようかな…と考え中
*1:昼の時点で炭水化物地獄や。W1210などでも、彼女に作ってもらいたい手料理としてカルボナーラを挙げているので、よっぽどパスタ好きなんだな…と思う。しかしその問いに対して真田は(サ∀ナ)煮込み料理&蒸し料理。手間ヒマかかってます系がいい などと言い出したので、野澤さんの要望などかわいいものかもしれない
*2:ちなみにぽんさんはこの回、オレンジジュースにウスターソースをかけたかき氷を村木くんに食べさせる暴挙もはたらいている
*3:16-17カレンダーJr.データブック
*4:「いま、舞台『Endless SHOCK』に出演しています。初めての一人生活、大変だけど毎日充実してます。」