一度や二度の悲しみじゃなくて

だいたい野澤と真田の話をしています

ghoti

 

ちゃぷん、と沈みこんでしまえば微かに浮力を感じる。そこが狭い浴槽であってもどこか、頼りどころもなく漂っているように思えた。

 

 

目を開くのは怖いので薄く閉じたままでいる。変に屈折するのか光がちかちかと目蓋の裏で明滅した。こうしていると、催眠療法みたいだ、と思う。音も確かには聞こえずに浮ついたようで、それでも、御し得ない息の吸い吐きが次第に追い立てるように鼓動を急かす。輪郭のない安穏と遠くから鳴らし立てるぼやりとした切迫感とが、同時に膜の向こうにあるようだった。考えているような、考えていないようなあの感覚だ。賽銭箱の前に立ったときのような、墓参りでしゃがみこんだときのような、宛てどないあの。


俺は、こうやって、皮膚がどんどん滲むように変わっていっただろうか。自分で道を90度も曲がるように走っていれば打ち立てた分岐点はそこにあったと振り返ることもできるだろうが。じわりじわりと、浸るように、馴染むように俺が変わっていく。流されたままなんて自負のないことまでは言わないが、それでも、日々少しずつ、じわりと、じわりと何かが俺に滑り込む。滲み込んだものは不可逆で、境目がなくて、どこまでが確かに元の俺だったかなんてもう分からない。それを、怖い、と思えるほど子どもではなかったし、世のギフトだと思えるほど大人でもなかった。

 

ただ、ただ不思議なのだ。こうやって浴槽の中に居続けていると、体と頭が離れていくような気がする。周りの波が滲み込んで変わっていく自分と、それをどこかで他人のように眺めて、息を吸い吐きしている自分と。


帰れる? 帰れるだろうか? 自分の体に。いつか、乖離した自分は置き去りにして、変わりきった体ばかりが、どこか遠くで動いていって

 

 

「ばん!いつまで浸かっとうとかて!」

障壁のあった世界に、音が割り込んだ。びしゃん!という家主らしい躊躇のないそれと波と咳とが一気に押し寄せた。げほ、ごほと顔を真っ赤にして息を吸う俺に、ユエが途端に叱りを解く。

 

「おま、また潜っとったとね? お前が来るけんて貧乏暮らしが風呂溜めてやりようのに、出禁にするぞ。浴禁」

洗い場にしゃがみこみ、よく分からない言葉を勝手に作りながら年上の大将らしく諌める横で、俺は咳混じりに笑ってしまう。

 

「笑い事でもなかろうが?」
「いやー、帰ってきたなと思って。体が重ぉい、はは、ははは」
「そらいっぱい中身の詰まった頭で良かったね」

互いに軽口を流して、そうして立ち上がる。

 

「俺ねぇユエさん、俺魚にはなれんわ」
「四季入れば良かっちゃない」
「人間がいいー」

一気に重力のかかった世界で笑う。あっさりと視界がすっきりした気がして、からからと笑った。

 


たまの遊びはもうおしまい。
まぁこの世界で、空気背負って生きますかね。